明治維新の宗教テロリズム  廃仏毀釈  智生寺

「明治維新」の悪名高き廃仏毀釈という政府発の宗教テロリズムの嵐はおかげさまで、当山へその矛先がむけられたという記録は残っておりません。

 

廃仏毀釈の被害といっても、今となっては何の事だかさっぱりわからないことでしょうし、現代感覚ではピンと来ませんので復習しますが、これは明治政府を邁進させた薩長閥の討幕の基本方針―尊皇攘夷から尊王討幕へ―の踏襲で、討幕によって武士社会と決別したあとの天皇中心の中央集権国家の再樹立(武士社会になる以前の如く)への道として、「神道」を国家の宗教として一本化することこそが相応しいと、短絡的に思考し、後先の配慮が欠落した「神仏判然令」(神仏分離)を発令したことによる「暴走」です。

 

敢えて記しますが「天皇中心」とは大義として明かしてはいるもののそのあとの「中央集権化」というものがワケありで、そのピラミッド型システムの中にいかにして一部明治維新の勝ち組グループによる私的特権を組みいれ、あるいは食い込み、以降それらの人々の恣意的安泰化を目する策であったことは歴史から言ってだいたい相違なかったところでもあります。

 

要は「天皇」という最大権力を前面に出して、その威光の下に一部の特化偏重した思想の人たちが強権化して暴走した最たるものが「戦争」だったわけです。

どこの国でも戦争の開始というものは国民では無く、ごくわずか少数の人たちによる閉鎖的空間にて決定されたものでしたね。 

 

その廃仏毀釈の「暴走」とはいったい何かと記せば、「仏教とその不随する文化遺産の破壊行為」ということです。

今、そういった話を思い起こせばアフガニスタンで発生した、やはり「異教徒の偶像を破壊」したバーミヤン遺跡を思い起こします。わかりやすい例ですが、それと同じことを明治維新、それも一部官主導で行われました。

 

この事は政府が絡んでいたということもあり、後世特に曖昧にされてきたという歴史があったようで、現代まであまり強く地方には伝わっていないようです。

しかし各地にそれらの被害を大きく被った地区があって、溜息混じりの如く、そういった負の歴史を僅かながら伝えています。

 

当家に於いては、当時の事は「何も聞いていない」ので、被害というものは微々たるものだったことは想像できますが、(むしろ酷かったのは金属類回収令です)牧之原市内の切山の廃寺跡にはその手の無残に遺された痕跡があります。

 

廃寺となったのは智生寺とい黄檗宗のお寺です。

やはり黄檗宗は目の敵になりやすかったのでしょうか。こちらでも廃寺になっています。

黄檗宗は一般の檀家さんを募るという傾向に無かったために財力不足から低迷しがちになることを記しましたが、廃仏毀釈で民衆の恨み、~もっとも扇動して打ち壊しを指示したのは国学者まがいの者か神職だったといいますが・・・~、を買ったのは寺院のこれまでの幕府寺請制度を傘に暴威を振るった僧侶に原因があったとも言いますから、「自業自得・因果応報」と言われた例もあります。当時の寺は「役所」の出先機関で末端民衆統制のベースでもありましたね。恨みを買うこともあったはずです。

 

聞くところによれば布施の多少により差別的な扱いを受け続けていた者たちが明治になってから国の管理が進み、これまで調子にのっていた坊さんや寺に対して暴動を起こしたという例もあるようです。まぁその大義が「神仏分離」の解釈だったわけです。

 

さて、その黄檗宗の智生寺には牧之原市教育委員会の指定の文化財、智生寺経塚があります①~④(場所はここ)。

こちらは茶畑の中。勝間田と坂部の部落を分断する台地の尾根になります。よって東は静岡空港、西に勝間田城、北には粟ケ岳が見えます。①に粟ケ岳⑤に空港と富士山。

 

こちらのお寺は西に降りた池⑥の少し上にあったそうです。

この辺りの茶畑でも放棄地があって茶の木はぼうぼうでした⑫。⑬はイノシシ捕獲用の罠です。

池の近くには祠があって残された本尊等が残っています。

 

興味深いのがその脇に並んだ石仏群⑦~⑩。

殆どが「人為的?」に打ち壊されていました。首の部分を丸太等で飛ばされているようです。惨いことをします。全国的にこれ以上の暴動が扇動された時代があったのですが、このような事が牧之原の田舎寺で行われていたのは何とも驚きです。

このような暴力は人間に及んでいくのが通例ですね。

何とかそのバカバカしい暴力に遅くとも気付いて阻止もした日本人がいたおかげで今の日本の仏教文化を体感できるのです。

 

⑫は今も残るその名「智生寺橋」より見た勝間田城(矢印)

方面。⑪がその場から見た智生寺経塚方向。