知る人ぞ知る黄檗寺院「宝泉寺」 相良波津 

拙寺の近く、直線で100m程度の場所にかつてあったお寺があります。超ローカルでごめんなさい。

安政の大地震の際、拙寺十代目の釋祐賢が家族や近隣の者たちと必死の思いで上がった山の入り口にあったお寺です(場所はここ)。この山には現在、曹洞宗の泰盛寺さんがあります。よって10代目が目にした萩間川辺りの惨状はこちら泰盛寺さん本堂の南側にある丘からだったと思います。

現在、海側からこの丘に続く避難路を整備しているようです。


それにしても地震直後に躊躇なく山へ上がったということは、それ以前から津波の恐怖を身を持って体感していたのか、あるいはしっかりした伝承や教訓があったということですね。

恐れ入ります。


さて、グーグルマップを開くと今でもしっかりと宝泉寺の名が地図に記されています。しかしながら地元の「古い」人はもはやその寺は実在していないことは知っていますね。

本堂はとっくに破却されて無くなっていますが、地元有志の手によって祠とその名を示す額が守られて、何となく今に伝わっているのでした。


宝泉寺の宗旨は「黄檗宗」。

黄檗宗(おうばくしゅう)を一言で言えば我が国に仏教宗旨が数ある中で、一番最後(江戸期)に「日本へ来た」教え(禅宗)でした。

もっとも江戸時代が終わると雨後の竹の子の如く、色々な仏教系新興宗教が出て来ています。しかしながら現在の仏教系寺院では鎌倉仏教かそれ以前の時代に興された宗旨が殆どですね。


本山は京都宇治市の黄檗山萬福寺、その宗旨は禅であって臨済の教えと同様なのですが、あくまでも明朝形式を踏襲していました。開祖は明朝から清朝に変わる頃に出た隠元です。

たまたま日本に招聘されて人気を博していたところに時の四代将軍徳川家綱という巨大スポンサーがつきました。

万治三年(1660年)に寺地を賜ってからの活動ですから、江戸初期のことですね。


当時の隠元の人気も絶大でその人気に将軍のバックアップ、お墨付きがあるということから、日本のピラミッド社会の上層階層の人たちがこぞって帰依したようです。

ハッキリ言ってエリートたちの宗旨の如くで、帰依者は武家や貴族のお金持ちが多かったということですが、この点が宗旨的に後世大きく伸びきれず、むしろ衰退していった原因になっています。特に最大スポンサーの大名家は移封、取潰しが多々発生して、寺を建てても将来に渡って維持するということになると檀家制度の一画を形成しなかった黄檗の流れは財務的に苦しい立場に追い込まれたわけです。


特にこの宗旨に於いて辛い仕打ちは他の宗派にも同様に降りかかった災難、明治維新でした。

廃仏毀釈の暴風雨もありましたが、明治政府によって「日本の禅宗は曹洞宗と臨済宗の二つだけ」と決定されてしまったことと、武士大名等の権威の喪失(スポンサーの喪失)でした。


さて、相良波津の昔にあった宝泉寺は

「天徳三年(1713)に相良藩初代藩主本多忠晴候によって波津天神ヶ谷に建立」とあります。忠晴の孫、相良藩三代本多忠如の時延享三年(1746)に陸奥泉藩へ移封となってお寺の後ろ盾が不在となったという形です。


地区の最大スポンサーの健在の時は、華々しい寺の繁栄が期待できますが、それらが居なくなったらそれらへの期待どころか維持についても限りなく「ゼロ」に近づいてしまうのでした。


場所は当家の西を走る国道473を渡って路地を小堤山方向へ。ちなみに一昔前はこのような道路は無くて、道路や人家が出来たのは戦後のこと。父親が言っていましたが田圃の畦道だったそうです。


①には当時の結界石でお馴染み「不許葷酒入山門」が残っています。その脇には最近建てられた地蔵堂がありますが、宝泉寺はそのスグ奥になります②③④。敷地からそう大きくない御堂だった感があります。敷地跡に転がっている水鉢に面白い言葉が・・・「納主 未年女」とあります。意味深ですね。何かあったのでしょうか・・・?  私も干支など信じませんが、当時は「半端ない気の強い女」の代名詞だったようですが・・・他にも色々あるようです。


⑨⑩は歴代住持の墓域。殆ど倒れていますが、彫られた文字は確認できます。七代目あたりまでこちらにおわすようです。

この墓域に参詣する者はもはや皆無でしょう。

しかし無意識のうちに近隣の皆さんは下から仰ぎ見ているのですよ。

なぜなら⑬小堤山トンネル入り口(北側)の真上にこの墓地があるからです。このトンネル前の窪みが「天神ヶ谷」と呼ばれた場所でしょう。⑭⑮はトンネル内部の案内板。


当山十代釋祐賢が逃げたと思われる山道②の左側。右が御堂の址のようです。⑪が泰盛寺さんの上に出たところでその先に廻りこんだ図が⑫です。この場所こそ釋祐賢が相良の町を見渡した場所に相違ないでしょう。

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コメント: 6
  • #1

    小山昭治 (木曜日, 22 1月 2015 08:46)

    近くのお寺の話は興味がわきますね。
    トンネルの上のお墓がそのような墓とは知りませんでした。
    毎朝 公園側からの坂道を上り運動をしていますが
    いい事を知りました。
    昔、天神ケ谷には橋が架かっていたような?
    泰盛寺側から今の展望台側の山へとあり、
    子供の頃 陣地とり?をやったような気がします。
    今の宝泉寺からの登り道も懐かしい思い出です。

  • #2

    今井一光 (木曜日, 22 1月 2015 19:13)

    ありがとうございます。
    小堤山は相良波津地区の子供たちにとってこのうえない良質なフィールドを提供していました。公園化されて昔の様相からは一変してしまい、秘密基地的男の子の遊びの場が消失してしまったのは時流なのでしょうか。
    私どもも、こちらで詳細を記すのは憚られるくらいの過激な遊びをするメッカでもありました。
    今は泥だらけで鼻を垂らしたいわゆる「クソ餓鬼」風を見かけられないは残念でもあります。放課後時間帯にもかかわらず竹藪や丘の小道を歩いていても一切子供たちとすれ違いません。ゲームに育てられた子供たちが大人になってどういう対応ができるのか不安でなりません。

  • #3

    遠州七不思議 (木曜日, 11 7月 2019 22:27)

    泰盛寺は、にほん昔話の民話の舞台となったお寺ですね。

  • #4

    今井一光 (木曜日, 11 7月 2019 23:39)

    ありがとうございます。
    その件まったく知りませんでした。

  • #5

    堀本芳乃 (月曜日, 13 2月 2023 08:37)

    私は、このお寺跡地の横で生まれ育ちました。
    裏には延命地蔵の祠と水掛地蔵、その後、天神社が建てられました。
    裏に続く道は泰盛寺の上に続き、左に行けば半僧坊さん、右へ行けば忠霊塔で、いつもその辺りで遊んでいました。
    宝泉寺だった建物が、当時の公会堂として使われて、老人会の集まりなどが開かれていました。
    その後、公会堂の建物に建て替えられました。多分、昭和42.3年頃かな。
    宝泉寺だった頃の建物の中は暗くて、開かずの間があったり、当時、管理人を任されていた方から、夕方になると仏像や位牌堂の方から話し声が聞こえたと聞いたことがあります。幼い頃の記憶なので、なんとも今となってはわかりませんが。
    数年前、懐かしく思い訪れたところ、当時の面影はなく、とてもさみしくなってしまいました。
    それでも、お隣のおばあちゃんがお地蔵様を守ってくれているようでした。
    昔は毎朝、近所のおばあちゃん達がお地蔵様にお参りに訪れ、前掛けや頭巾など奉納していましたし、毎月、お祭りをして、直会のようなものもされていて、お裾分けをいただいていました。

    この記事を見つけ、懐かしくなり長々と書かせていただきました。ごめんなさい。
    また、記事にしていただきありがとうございます。

  • #6

    今井一光 (月曜日, 13 2月 2023 23:44)

    ありがとうございます。
    すると通りを隔てて相当近い場所にいらしたのですね。
    昭和42頃のその地の様子について私の記憶からはまったく消えています。
    ただ小堤山公園の変貌ぶりは目の当たりにしていましたが。
    激変の様ですがそれはこちらに限ったことではありませんからね。
    尚、宝泉寺の祠の管理は波津区の女性陣がしっかりとやってくれているようです。