「中」の村落だから中村  中村城山の中村砦

高天神城六砦(→遠州歴史散歩)の一つ、中村城山(なかむらじょうやま)も現状家康が天正七または八年に整備させた高天神城包囲網の砦というイメージ―松平家忠普請、大須賀康高持―ですが、これもそれ以前から城塞化された城域でした。普請(土木工事)に六日間という数字がありますが、その程度の期間での城塞の躰を為すくらいですから、ベースとなるものがあったことは頷けます。普請でも一から構築するものとは違うということですね。こちらは旧大東町「中」という「村落」です。

 

徳川方の城普請に同等の七日間しかかからなかったといわれる獅子ケ鼻砦からも近く高天神城から見てさらに南側―遠州灘寄り―という立地になります(場所はここ)。

 

近隣に「海戸」という地名があります。⑮参照。⑧⑨⑩は海戸と呼ばれる城南西からの図です。川は当時と比べて相当位置を変えているようです。

その「海戸」の地名として名残を留めていますが、天正年間は当然にこの辺りは海浜です。

それにしても現在の風景からしてまったく想像できないほどです。私は横須賀城の「姥懐」をよく引き合いに出していましたが、あらためてこの地区の「隆起の歴史」を思い知るわけです。

高天神城を囲む衛星の如きあった時代は兵糧物資を海路からの搬入に使っていたであろうことがうかがえます。

 

さて、この「中」地区における歴史は地元資料、特に満勝寺さんから知り得る部分も若干あって天正以前、というか今川時代のこの地の統治者は分かっています。

 

当地には今も「雑賀」を名のる一統がありますが、これは牧之原市榛原川崎の古い地名の「雑賀」とは違います。

 

川崎の方は紀伊雑賀門徒が発祥でした。

「中」の雑賀の発祥は吉長山満勝寺の中興、天台から日蓮宗?開基とする雑賀肥後守吉長です。

~⑫は「中」の交差点。米屋さんの名称が雑賀さんですね。⑬満勝寺さん前のバス停から見た交差点方向。

 

歴史的な彼人の活躍は寺の存在と寺の資料以外残されていないということから、おそらく地頭職あがりの国人土豪で、中村を知行したものの、横地や勝間田同様、斯波氏系。

よって反今川の旗を掲げたために表舞台から一掃されたということ。これは古城研究会の鈴木東洋氏の推察の通りだと思います。敗者の歴史は消えるか書き換えられるのが常です。

満勝寺さんは雑賀氏の寺ですが、寺だからこそ今川氏に安堵されて残ったといったところでしょう。

 

「小笠郡中村郷土誌」(元は満勝寺資料より)によると「位置、中村中、満勝寺南方二丁、横須賀を距ること二里、史伝、雑賀肥後守吉長の城址なり、吉長は斯波武衛の臣にして朝倉氏の乱に戦功あり。賞禄として中村を領し、文安(嘉吉のあと1444~1449)年中茲に城を築きしなり。」

 

城は詳かく記せば「高塚」という場所で遠目からは一つの浮島の如くです。登城すれば東西二つの曲輪?に分かれています。

双子山ですね⑧。

何しろ竹藪の密集で進路を遮られる感がありますが、1か所だけスンナリ上れる入路があります。ただしそのあとは酷い藪と竹林ですね。

入路は黄色矢印です。民家の畑の奥からこちらも一見「無理だろう」と思えますが、「どうにでもなれ」という気持ちになって突き進めば薄暗い竹藪に1本道があるのがわかります④。

 

東側の大きい方の山(⑤比高27m)から西の山(若宮神社①②③背後)に渡るには高低差がありますが崖の如くの谷状になっていました。

冬場でなければこんな無茶はする気にはなれません。⑫は東側曲輪より現在の海の方向。