瀧之宮神社の避難道 滝境付近追記 

先日記した「ラムネ川」の名は地元の人に聞けば「清涼な水を利用したラムネの工場があった」ということでほぼ確定。

台地上の茶畑の開墾が進み、肥料と農薬の浸潤によって水の安全性に担保できなくなったのでしょうか。

 

本当に湧水と小さな川が無数に流れ出る場所ですが、水道などのインフラが整備される以前は当然の如くこれらの水を使用していたそうです。水量は豊富でどんなに雨が無い日照りの日が続いても絶対に枯れる事はなかったそうです。

 

天井川の件もかなり厄介でスグに川は堆積し、陳情してもなかなか対応してくれないとのこと。数が多いので手が回らないのでしょう。数年で、川から流出した土砂が漁港に堆積しだして、船の航行に支障が出てくるとも。

釣徳寺さん上部の砂防ダムは今のところ姿は確認できますが既に堆積によって使い物にならなくなったダムもあるそうです。

メンテナンスしなくてはかつての防災への投資がダムではなくムダになるというオチですね。

 

ということはやはり土石流発生の恐れが高いということは言うまでもないことで、釣徳寺さん脇の土石流に続いてこういった話を聞きました。

約37~8年前の事だったらしいのですが、相当の土砂崩れの連鎖があって、新旧滝境城を中心に片浜の瀧之宮神社から勝間田川手前の「堀切」付近まで駿河湾から見た風景は見事に10数本の白い竪筋が入っていたとのこと。ちなみに勝間田川手前辺りの地名、「堀切」の地名はまさに付近山腹にその手の城の施設があったということを示唆していますね。

 

竹藪が多いのは土砂崩れが多かったということのようですね。通常ならば、広葉樹が繁茂している場所で、それらがなぎ倒されたあとは必ず一気に竹が繁茂するそうです。竹は根が浅くて、土砂の崩落防止になりませんね。

 

さて、滝境城が瀧之宮神社の「瀧」と「坂井」の合成語であるとする説を記しましたが、その瀧之宮神社は前述の土砂崩れの際、社殿が倒壊しています。現在のものは地元有志による再建ですね。

その倒壊時には、主殿内部で寝起きしていた身元不詳の方の遺体が発見されているようです。

 

さて、当然にこの上部は避難地指定となっていますが、やはり小さな川が流れていて、もしかすると崩落の可能性が残ります。

石段で繋がる参道の上の主殿は崩落したという経緯がありますので現在その左方向ではなく右の山に避難路を設けようとしている形跡があります。きっと地元の方のどなたが地道にコツコツ竹藪を開いて避難路プランBを開拓しているところでしょう。

 

須々木地区よりも地盤が悪く、海岸線と丘陵が迫った狭小の地である片浜(昔は坂井の他、太田浜ともいいました~当山過去帳)が牧之原では一番の危険区域のような気がします。

「片浜」の語源を思量するに「片」は古くから「不格好」「不完全」の意で使用されることが多く、放送禁止用語のアレもそうでした。そういう意から推するに私は(避難路の)「選択肢が無い」と解しますが・・・


⑧は「大願成就」と刻まれた扁額?

昭和8年に竣工して同16年に完工した「坂井金谷線道路延長六百間」とあって当時の片浜地区世話人・賛助人の名が明記されていました。いったいどの道路の事を言うのか不明です。1㎞と少しですから古滝境城の西を上る林道のことでしょうか?

唯一当地区の御門徒家の方の名はスグにわかりました。