相良一番の富士山の眺望  滝境古城も放置さる

何故に比高6~70mの山で筋肉痛でヘロヘロになるのか、といいますと昨日もチラっと記しましたように、

一、新城については曲輪周囲の崖の下ったり登ったり

二、古城は先端からの崖下り

三、新城と古城の間のもう一つの突出部の先端からの下り

をしたからです。

 

りも上りもロープ等の持参はしませんでしたので支えの頼りになるものは周囲に自生する木や竹。それらを、「枯れているのか生きているのか」瞬時に判別して取り付きながら下りたり上ったりを繰り返します。光の供給が少ないために枯れている木立が相当ありますので、紛らわしいものです。バキバキやりながら藪山行脚。

 

上記二の古城からの下りは、ただ「降りるだけ」の工程で、そういうお遊びはこの時期ならではの探索です。夏季は無理ですからね。

これは平地までの途中の様子と主郭直下の、ある程度正確な位置を知りたかったためです。

 

昨日も記しました通り、滝境新城の方はまだしも滝境古城については相良に古くからいる住民であっても場所を正確に承知し、説明できる方は少ないでしょう。 

場所は釣徳寺から見て「その上部」が漠然とした両城の位置。以前「大きなヤマモモ木の下の石碑」がある場所が主郭だろうと住職が仰っていました。

 

今回あがって見ればあの細長い石碑は、地盤がコンクリートで固められていたにも関わらず転倒していました。

木々が周囲にあったとしても海側からの風は半端では無いのでしょうね。気の毒に思うのは藪の中でそのままほったらかしになっているということです。

 

この古い方の城は勝間田城の支城としてあったもので、武田勢南下政策の中、馬場信春が信玄から命じられてこの地に城普請、そのまま有効利用しようと入りましたが、狭小であることを理由に近くの法京の上の台地先端に「新」を作ったと伝わっています。

 

狭小というのは事実で、全体の縄張りについては不詳ですが、駿河湾に出張った(まさに「取出」―砦)ような出丸風の削平地に関していえば、なるほど狭小です。

しかしまさか、あの地のみを勝間田の出城と決めるのはいかにも拙速ですので、その比較的大きな堀切風高低差の根本から牧之原特有の台地に広がる城域がまだまだあったと思います。

 

そう考えると、文献にある「狭すぎた」というのは「本丸」のみに限定されるべきで、城域が台地上の現在の広大な茶畑の部分にまであったとすれば広さについては十分のものがあります。よってその新城を造営しなくてはならない理由としては防御性の一語に尽きると思いますね。

 

「古城の方が山がどっしり」で「新城は細長く突き出た山」(昨日ブログ)というのがミソです。古城の石碑のある本丸推定地はそのどっしりの先端に突き出た小山、前方底部から見上げてもその段差の状況は確認不可ですが・・・。

 

案内板の一切無い、新城よりさらに放置状態の滝境古城の行き方はなかなか難しいものがありますし、説明するのも少々面倒ですが、この機会に一気に記します。

 

行き方としては一番手っ取り早いのが

1. 釣徳寺の大欠堂から上がる地区避難地と呼ばれる小道からの登攀です。少々左方向(だいたい10時~11時)です。

崩落により道は途中で無くなっていますから冬季限定、強者限定の崖のぼりです。左方向に武者走り風の「尾根状」の地形(竪堀というのはこじ付けか?)を見つけたらそれに取り付いて上がればその出丸下段に到達。

北東側は脆い直角の崖状になっていますので南側に回り込んでください。

 

そんなのは「冗談じゃない」という方は、

2. 150号線のコンビニ向かいの避難道を使って迂回してください(画像① 「坂井」バス停が「滝境」をしっかり暗示しています。黄矢印が古城です)。

こちらに関しては普通車でも何とか台地上にあがることはできますが、途中林道になりますので、ご自身の判断でお願いします。この道ですと古城よりさらに南側の突出部の根本になりますので北側(来た道から見て右方)に一つ分「枝」を変えなくてはなりません。よって右に見える林が切れる茶畑を廻り込んで南進するということになります。

 

3. 昨日の新城同様、平田寺前の道を行くことになりますが、車さえ停められれば案外ラクです。しかし農道だと農家の邪魔になってしまいます。探せばスペースはありますが、目標にもなる道路脇の農家用給水施設内に停めさせてもらうのが一番だと思います。

この給水施設は平田寺側から見て進行方向左側にあります。

車を停めたら徒歩でその道を100mほど戻り、海側に向かう舗装路を探します。その道を100m程度行くと左側に未舗装の道が出ますのでそちらに(画像④)。

現状、その分岐手前に紺色の放置車両(画像③)がありますのでそちらが目印となります。

 

その未舗装の道を行けば上述2の廻りこんだ道に合流するわけですが、とにかく茶畑の海側端まで進みます(画像⑤)。問題はここからです。

台地の端から堀切(天然?)に至る段差を降りなければなりません。進入路は唯一牧之原市が関与している事を思わせる黄色い柵柱の左側にある殆ど獣道としか思えないような藪に思い切って入り込みます(⑤⑥)。

 

獣道を進入して一段下った場所が⑧となりますが、足元を見ると境界線を表す杭が2本たて続けに打たれています(黄色い〇)のでその先の木の間を更に下って行きます。

その先にやっと「堀切に空堀」を感じる構造物然とした地形で「城址」を感じることができる場所となります。

その道を上りきると平坦に削平された本曲輪推定値に到着です(航空図はこちら)。

 

ざっと8m×30m程度でしょうか。その先端に例のヤマモモの下の石碑があるのでした。

ちなみにこの付近はヤマモモだらけでそれを目標に城を探索するのは無理があります。

 

石柱は既に倒れていて見るも無残な状況となっています。

建碑は昭和三年。片浜に多くある森田姓お二方の名も。

大きく記されている文字は「頭之城記念碑」とあります。

片浜地区からみれば頭上ですから、古くから地元ではそのように呼ばれていたのでしょうね。

 

下図は給水所の様子です。この手前から農道に進みます。

ちなみに下図の最後が昨日にもアップした新城からの富士山と駿河湾。

上の⑮が古城から見たそれですがあきらかに古城からの富士山の景色は筆舌に尽くし難い感があります。孤を描く海岸線が見事で古城の方がより海に近く感じます。

古城の富士は相良で一番です。是非に滝境古城をチャレンジください。

 

不案内な方は拙僧がご案内いたしますのでご一報ください。

調整いたします。快晴の冬の富士を望むには絶好の場所です。

おつとめが無い時間でしたらよろこんでボランティアガイドをいたします。

 

昨日の続きですが、この茶畑ではない主郭?部分は是非に発掘調査を進めた上で下からの道を整備して公園化していただきたいものです。茶畑で開墾されていないのでやりやすいと思います。また、大欠堂のところでも記しましたが、急傾斜地で、土砂崩落の崖が下部にあるため、防災の観点からも地盤改良をしつつ登城口を整備するのは一石二鳥と思われます。

 

あの絶景を観光資源に使わないのは解せません。

というか相良の皆さんもアレは見たことが無いのかも知れませんね。

これからも宣伝していきたいと思います。

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コメント: 2
  • #1

    小関 (土曜日, 02 3月 2019 22:41)

    先日滝堺古城に行ってきました。2019年現在も見事に石碑が倒れてしまっています。
    このままでは何十年とこのままになってしまう気がします。
    なんとか元に戻す方法はないですかね・・・?

  • #2

    今井一光 (土曜日, 09 3月 2019 21:13)

    ありがとうございます。
    こちらの整備に関しては再三声をあげていますが、市は私有地ということで二の足を踏んてしまっているようです。
    買い上げてしえばいいと簡単にはいえないのですね。
    市の財政事情から致し方ないのです。
    歯がゆい思いをしています。