男子(おのこ)多くして・・・家傾く  新羅三郎義光

三井寺(園城寺)の新羅明神で元服したことから「新羅(しんら)三郎」、源義光です。三郎というくらいだから三男。

ちなみに長男が八幡太郎義家、源氏の棟梁いわゆる本流です。

二男が加茂二郎義綱で、それぞれ元服した場所、神社の名が入っています。彼らの子孫たちが各各分派し、鎌倉期の有力御家人となり室町期の群雄割拠に顔を出すことになります。

 

上から「太郎―二郎―三郎」でわかりやすく気持ちイイ。

絵に描いたような幸せそうな構図で、羨ましく健やかな家庭を想いますね。

しかしながら源氏の系統は後の頼朝の如く、兄弟同士、一族内での紛争が絶えず起こって他者に利を与えてしまうという傾向がある様です。

武闘派の感漂う三郎義光の場合、山っ気を起こしたのちずる賢く暗躍、河内源治の棟梁を継いだ兄義家の三男(こちらでも兄弟の紛争あり)の義忠を殺して自らが河内守の地位を奪取することを画策します。

結局義忠殺しの下手人の始末やらからくりの段、が衆目の前に晒されて、遺恨も残して一族からも敵視され逃亡するハメになりました。

世に「3人兄弟」についてはよく耳目にしますが「3人仲良く」的共存はそうは無いでしょうね。当時はむしろ「別腹」といって妾を持ち複数の男子があって「交錯」しますのでそれぞれが頭角を顕わしたら収拾がつかないでしょう。

 

年齢が離れていても「外部要因」的圧力から三男が家督を継ぐなどということもよくある話です。当流も本願寺顕如の息子たちから東西に分裂しました。

 

この件によって源家は一挙に衰退して、平氏の台頭を迎える事となります。

男の子の多い家庭に、目を細め、「目出度いこと」と他家を羨む傾向がありますが、案外歴史上、男子出生が重なってそれぞれが元気どころか武勇に長けて勇壮に育てば、将来の「家」の不安定に繋がるのでした。

 

これらの経験則から室町期の足利家や今川家に見られるように余計な禍根を残して、内部分裂を避けるために長子以外は「寺に入る」(世を捨てる)という姿勢を取らせたのです。

それでも兄弟同士の紛争は以後も続いたというのが日本の歴史なのでした。

相続権者が多ければ多いほど先代が亡くなったあとに家は紛糾するという姿は今も同じようです。被相続者たる者は、後々の身内のゴタゴタをよく思量して後生の一大事を迎えなくてはなりません。

 

画像は新羅三郎義光の墓。

長等山についてはこの数か月に幾度か記しています。

この山を越えれば京都東山であることは昨日記しました。

私のPCでいえば検索方法として「コントロール+F(Ctrl+F)」で開いたブランクに文字列を入力して画面内を検索します。

ページ左側のホームの下、「ブログ墓場放浪記」をクリックして三か月分のブログを開いたあとにCtrl+Fで「長等山」入れて検索してみてください。

 

この道は大津市歴史博物館の駐車場脇から上ります。

別コースでは新羅明神からのコースも可能ですが、前回も記しましたように、ハッキリ言って不安になるくらいの森の中となります。注意深く歩けば何とかなるハズです(場所はこのあたり)。

 

御椀を逆さまにしたような墓です。⑤の如く木々の覆う細道を通ります。土塁状の遺構らしきものや石垣なども目にします。

⑥は途中で見かけた墓の一つ。不詳です。この道はまさに「奥の墓道」に相応しい。