坂本の慈眼堂は滋賀御殿   滋賀院門跡  法勝寺 

昨日記した慈眼堂はこちらの滋賀院敷地と隣り合わせというか殆ど同じ敷地内のようなもの。


慈眼大師天海が後陽成上皇から京都の北白川、法勝寺(ほっしょうじ)を下賜されて近江坂本に移築、後水之尾天皇から「滋賀院」の号を賜ってから天台座主であった法親王が代々住まいとしていた寺がこちらのお寺です。よって「滋賀御殿」とも呼ばれていました。


そもそもの法勝寺の発祥は白河天皇の頃です。

後に天台座主慈円(愚管抄を著し、青蓮院で9歳の親鸞聖人の得度式を行った人)はこの寺を「国王の氏寺」と呼んだほど代々の天皇の尊崇を受けていました。

天皇家の儀礼流儀が神式一本槍の如くの現代の流れはそう古いものでは無く明治維新以降のものですね。

仏教と天皇家の歴史は薩長閥によって捻じ曲げられてしまったといっても過言ではないでしょう。今の「天皇の氏寺」と聞いてもまったくピンと来ませんし・・・


白河天皇は「神威を助くるものは仏法なり。皇図を守るものもまた仏法なり」との仰せでした。

明治維新は国家神道の元に国民を不幸の戦争世界に迷走させてしまいましたしマッカーサー占領下ではそこのところを元に戻すまではいたらなかったのですね。


さて、昨日に引き続き慈眼堂について。

天海の御廟を「慈眼堂」といい、日光の輪王寺にも堂や墓所としてその名を見る事ができますが、勿論こちらの滋賀院内にもその名の通り「慈眼堂」という堂があります。

また、昨日記した穴太積の前に並ぶ13体の阿弥陀仏石仏の前には歴史上の各界著名人の供養塔が立ち並んでいます。

桜の季節に訪問した図です。少々気が早いと思われましょうが暖かい春を待ちわびるが如く、懐かしくアップしました。


①格式の高さを表す土塀のライン。②慈眼堂③慈眼大師(天海)石塔⑤桓武天皇⑥後陽成天皇⑦後水之尾⑧⑨家康・・・各天台座主

そして⑭和泉式部(右)と清少納言(左)⑮紫式部となります。

まぁ墓好きにはたまらない場所でもあります。

天海はそれらの墓碑の守護として阿弥陀仏を揃えたかったのでしょう。