48・・48とは耳にして・・・鵜川→慈眼堂 近江坂本

「48」の連呼は秋葉系というかその手の流行りものの「信者」に限りません。

私たちの宗旨では現代の騒ぎの如くの「48」への讃嘆は、私で云えば彼らが三輪車に乗る、いやこの世に生れてくる以前からその数字への親しみは深いモノがあります。

何せ正信偈に続く真宗の根本聖典である三部経の「無量寿経」に出てくる「数字」です。

 

内容は阿弥陀仏になる前の法蔵菩薩の「願」のことでそれが「48」あって、特に一番有名な、また法蔵菩薩や浄土教系の宗旨が主眼として大切にされているのが⑱番目、「十八願」ですね。

「おはこ」というやつで、何故か知りませんが、ワープロでそれを入力すれば「十八番」と出て来る、とはどこかでもう記しましたでしょうか。大切だから箱の中にしまうとも言いましたね。

私たちの「48」とは無量寿、阿弥陀さんのことでした。

 

私のブログなどいったい何を記しているか無茶苦茶の躰でお恥ずかしいこととは思ってはいますが、取り敢えず「適当にやっている」ということのみは先刻ご承知の事と。

というわけで最早、痴呆の前段階か記憶も飛び、同じような事を繰り返して記しているのですが、中には尻切れトンボ的に、完結していない話題もあったりもします。

そういう「適当さ」が許容されるべく、ハナからそのようにお許しを願っているのでもありますが。

 

ずっと「尻切れ」となっていた近江、鵜川の四十八願仏

近江守護六角義賢(承禎)が亡き母のために建立したといいます。実はそちらには33体の阿弥陀様しかなく2体は逸失、13体  が坂本の慈眼堂に移設されていることを記しました。

 

そこで慈眼堂の13仏の御姿を。

慈眼堂とは天台宗の僧、南光坊天海の廟所の事(場所はここ)。

信長によって焼き払われた比叡山の復興と家康はじめ秀忠、家光のブレーンとして幕府中枢にいて影響力高く政権内で存在感を顕わした坊さんです。

そういえば明智光秀は山﨑合戦では死んではいず、落ち延びて天海を名のったなどというフィクションがありました。近江坂本は活動していた場所として光秀と天海は一致しますが・・・。

 

どちらにしろ13体の阿弥陀さんを鵜川からこの比叡の麓に運び出した人はあの天海であったのなら、大義も権威も申し分ない人で、当時どこからも文句は出なかったことは分かりますね。

 

推測ですが、これらの重量物をまとめて搬送するとなればやはり陸路より水路がベスト。

何と言っても鵜川の地など湖岸が眼前に広がっています。

そこのところ私でなくてもどなたでもそのように算段するでしょう。

ということで逸失した2体のありかは・・・事故による湖底埋没説です。阿弥陀さんを無理に移動させて湖底に沈めたとは言い難いことで、うやむやにされたのかも知れません。よって琵琶湖の鵜川から坂本の間に2体の阿弥陀さんは眠っていると・・・

 

天海としては元々15体をこちらに並べるつもりだったのでしょう。13より15の方が区切りも良く、口から軽く出てきそうな数字ですし本拠の1/3程度で勝手な「許容範囲」を思ったのかも知れません。まぁ今ではそのような勝手な移設は有り得ないほどの暴挙ですが、13体の阿弥陀さまの方は慈眼堂の目玉として鎮座していますので、「人目に付く」という点のみ人々にはありがたさを振る舞っています。

私は鵜川に48体ある方が何より素晴らしいことだと思います。48あっての四十八願、バラバラにしてお飾りする意味はありません。

 

そして2体の仏が「西のうみ」に沈んでいると思うと湖東からの湖西の日没はより有り難く感じます。

蛇足ながら阿弥陀さんの背後の石積みは穴太積。

下図は元々あった鵜川の復習、皆さん湖面の方角(東)を向いて座しています。そして「奥の墓道」のトレードマークの帽子。トンボが座して阿弥陀さんを案内の図。