権利でもあり義務でもある  くさくさするねぇ

一昨日は恒例になったみかん狩り。夏場の手入れ不足で昨年からは殆どの木が枯れて1/4程度に激減してしまいました。

素人のデタラメ管理3年目の為せる業ですね。

それでもこの画像は「一番」見栄えのする木です。

 

檀家さんに呼びかけて夏以降幾度か草刈の参加をお願いしていました。そのボランティアに参加されたみなさんに声をかけての収穫でしたが、収穫量はかなり減って、異口同音に「きっと来年はダメだね」。

 

その日は御前崎方面経由で浜岡へ。②は御前崎先端近くから駿河湾方面。富士山がうっすら見えました。

③は灯台の下辺りから遠州灘方面。そろそろ日没といった絵です。

 

さて、昨日あった法要のあとのお斎にて老人介護施設に勤めておられる方々と時間を持つ機会がありました。

当家としても私の母親がその手の施設で御厄介になっておりますので、大きい意味で恩人のような方たちです。といってもいわゆる若手のみなさんですね。こういう人たちのおかげでこの国は何とか体裁を維持しているようなものです。

 

その場では母親の件、私が家族から「お前はオニか!?・・・」と言われたという話をしました。

選挙の投票については当初の私の近江行脚の予定もあって事前に済ませていましたが、1枚だけ母親の投票案内のハガキが残っていました。

この言は近江行は断念したこともあって、「母親を車椅子に載せて施設からひきづり出して投票に行かせよう」と提案した際の家庭内の反応でした。

 

「このクソ寒い中、外に出せば『即死』だろ、インフルエンザにでも罹患すれば他の施設の方にも大迷惑、絵空事を宣うのはいい加減にしろ」という趣旨でした。

私としては投票(選挙権の行使)は歴とした社会参加であり、それを放棄させることはひょっとしてこの社会の中で生きている証をも奪ってしまうのではないかという意見をしたのですがそれを「絵空事」と一蹴されたワケですね。

 

意思の脆弱な私はスンナリとそのご意見に従って反論することはできませんでしたが、「やはりおかしいな」という不思議と「こんなことでいいのか」という気持ちに苛まれました。

そういう母親が「今居る」という状況からそのように感じたわけで、おそらくそのような状況にない、意気軒昂な社会活動、経済活動を行う方々はその手の事は微塵にも感じないでしょうね。

 

全国には投票権があって、ちゃんとそのハガキが到着していても投票所には行けない人、棄権せざるを得ない人が数多くいるはずです。

年々投票所に行く人は少なくなって色々な場で投票行動を促す言葉や、テレビのスポット、ニュースのアナウンサ―が呼びかけを行っていますが、それは健常者(強い人)のみのお話ですね。

 

前述の介護施設に関わっている方は、大きい施設には選挙管理委員による出張投票のシステムがあるとのことを仰っていましたが、そのサービスはごく一部のものに限られていて、小さな施設では「投票所」へこぞって足を運ばなくてはならないそうです。時間と人の配分にこのイベントは相当難儀するそうです。参加したくとも出来ないというのが実情のようです。

無配慮なのですね。弱きものへは・・・

それにしても気候がもう少しよければ大分ラクなのでしょうが。

 

亡くなった私の父親の如く昏睡状態にあって意思決定もできずベッドから離れることが有り得ない人は選挙など所詮無理なお話であることは分かりますが、投票意思があっても投票所に行けないという物理的理由で棄権せざるを得ない方がいるということに空しさを禁じ得ません。

 

要は国民の最低限の権利である選挙権の行使は弱者は見捨てられる、無視されているということに、これまた「ハッと」気が付いたというワケです。

 

投票率が上がると具合の悪いという姑息な短慮が働いてこの時期の「クソ寒い投票日」を選択したとも受けとめられますが、「何故今なんだろう」という疑問も世間には渦巻いています。

つきっきりで介護する人、特に「老老介護」と呼ばれる過酷な家庭にある人々からは「選挙なんか行ってられない」という声も聞こえてきますね。

 

たとえばインターネットの利用は立候補者の「偽善」(ひとのためによいことをする)の主張をするだけに使われるだけでなく、実際に気軽に「投票」をできるように、投票率の向上に繋げなくては意味がありませんね。

 

個人の認証については技術的にクリアできている筈です。

まぁ、ヤル気が無いだけ。むしろそれを行って投票率が上がることを危惧している輩がいるということをも考えてしまいます。

 

政治屋(家)の皆さんは「自分の目」でのみ物事を見て、社会的弱者の「本当の声」は聞こえてこないという独り善がりの職種だと言ったらお叱りを受けるでしょうが、私から見るとやはりあたかも民の上に立っているような振舞をしているように見えてなりません。

 

本来の民主主義で選択された者どもは民の下に居るスタンスで常に「自己犠牲」の元に馬車馬の如く働くという心構えが必要です。

国民にあの手の人たちを崇めて讃えるという傾向があるとしたらそれは大きな間違いであると思います。

アイドル風にのぼせ上っている「ファン」風の人もいるようですが、彼ら(国会議員)はあくまでも「国民の僕」であるべきですね。声なき声を聴く(「聴無声」)という姿勢が欠落しているのです。

耳をそばだてて聞いて欲しいですね。まあ「馬の耳に念仏」の輩でしょうが。

 

あのお仕事は、仕事をしてあたりまえ、罵倒されてあたりまえ、国民に監視されてあたりまえ、国民に束縛されて当たりまえの仕事なのです。

世の中で一番「自由は無い」職種であるべきですね。

 

自らその仕事を自己犠牲の自覚をもって立候補したはずなのですから・・・。

それが嫌なら政治家になどなろうとしないことです。

 

宗教と政治は一線を画すべきであり、時として水と油であるとも思う自称宗教者の独り言でした。

私は「一向専念無量寿仏」。アミダ党、親鸞党、そして甘党です。