善し悪しの文字(もんじ) 善悪の字しりかほ(顔)

言葉を聞き知り、理解し、自ずから話すことによって人は成長し自覚していくものです。

自立歩行後に言葉という珠玉の文明の種を取得し、文字として残した結果、他の生物とは違った優越性を持って、格段の進化を為し、文明とその繁栄を享受してきたのです。

また歴史の学びとして今の私たちがそれらに触れることができるということはとても有意義で、また「歴史」こそ人間というものを学ぶに一番の教材となることがわかります。

 

コミュニケーションという意味でもその言語の取得の意義は大きいものがあります。人間同士の意思の交流が「会話」であって、哺乳類の頂点として出現し君臨する「人」の特別な能力でもありました。もっとも他の生物たちや、地球環境にとっては大いなるマイナスであったでしょうが・・・

 

さて、歎異抄の「さるべき業縁」に続いて標記はあの「恩徳讃」でお馴染みの御和讃が記されている「正像末和讃」から(聖典P511)。

 

「よしあしの 文字をもしらぬ ひとはみな   

     まことのこころ なりけるを   

   善悪の字 しりがほは  おほそらごとの かたちなり」

 

これも「私の事」「私の目」「私のはからい」。

親鸞さんの仰ることは、判定は真実一つ「仏の目を通しているのか」によるのですが、私たち人間は「私の都合」で物事を運ぼうとする傾向があります。そういうのを「大虚言」(おおそらごと)と断じています。

 

文明は言葉とともに発展しましたが、仏不在の「末法」(「正像末」の「末」)の世においては「言の葉」のみが独り歩きしがちになるようです。「何が善、何が悪か・・・」現代人に今一度問いかけています。私たちの「知ってます」ということもかなりいい加減だということです。

慈愛のフィルター=仏の目を通して物を見て行かないと行きつく先は「修羅」の道であることは人間が繰り返してきた「愚」でもありました。

 

画像は先日お知らせしたゴミ集積所

新しいコメントが更新されていましたので・・・。

この前を通るときはわくわくさせられます。

こちらの「ゴミ出しは命がけ」になっているようです。

あの地は他所から来た短期の住人が結構いるようですからね。

まぁお互いうまくやってください。