「念仏には無義をもって・・・」これこそ他力

市内の方より聞きかじった話。

また当地で自死があったとのこと。

連れ添い(奥さん)が余命半年の宣告を受けて、絶望?し老父母を残しての「結論」だったとか。

 

絶望されるまでの経緯は推察され、とても大変なことだと思いますが、結果としての現実はあまりにも痛ましく衝撃的です。

気持ちを汲むことはできます。しかし何とも言えぬ空しさを禁じ得ません。

 

標記は歎異抄第十章にある

「念仏には無義をもって義とす」

です。

「親鸞さんがこう言ってました・・・」の歎異抄ですから、開祖の言葉として、ズシリと響きます。

 

一瞬何の事やらと思いますが、「無義」の「義」とは「意義」とか「意味」ですから、それに否定の「無」が付いているので、ぶっちゃけ「あんたのおつむで考えないでいい」、「どんぶり勘定にせよ!!」でしょうか。「計算しない」「はからわない」といってもいいですね。

別の言葉でいえば「おまかせする」でもあるし、今年の流行語大賞?でいえば「ありのまま」でしょう。


まぁ正解とすれば「聖典」(※真宗聖典という浄土真宗のバイブル的「根拠」)に「行者のおのおののはからうこころなり=自力」とあります(聖典P532~P533)。要するに「他力とは義なきを義とす」ということで、この言葉は「他力」の強調です。

行者とは「生きる我等」ですからこの場合「私」ですね。

 

「生きるべきか死ぬべきか」の問題は昨日記した「のびのびとした自由」(逍遥)という意をその名にした坪内逍遥の「ハムレット」の解釈が今の私たちの脳裏に刻まれるそのきっかけとなったわけですが、当初その場面の訳は「世に在る、世に在らぬ・・・」だったとか。

 

どちらにしろ「生死の苦界」(高僧和讃)から逃げる(度脱―迷いから抜け出る)ことは不可能に近いことなのですからそのような難しすぎる宗教なのか哲学なのか大いなる難題は「自分で解決」しようと思わないことが肝要ということでしょう。

まさに「他力のすすめ」ですね。

 

悲劇的結末を迎えるという事案が日本に増えているということはみなさん「自分で自分で」の気持ちが潜在的に強くあるということです。

ということは仏教離れが進んでいるということです。

今一度仏法を聞き、「自分教」から抜け出して欲しいもです。

釈迦は一言、最初から「人生とは一切皆苦」と言っているではありませんか。

 

苦しみが降って湧いたのではありません。誰であっても苦しみを抱えて生きています。だからみんなで助け合って生きていければと思います。ボヤいてもいいではないですか。

また、心が元気な時も、弱くなった時も「聞く耳」だけは捨てないでほしいものです。

 

画像①は報恩講の日に舞い込んだご縁の「いろは」姫。

②はひょんなご縁で授かった5匹の子猫中の一。

③はそのうち亡くなった1匹の「おとむらい」。封筒の中に入るくらい、生れて六日目くらいでした。

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (木曜日, 04 12月 2014 08:40)

    久し振りにお寺らしいお話、ありがとうございます。
    勝手に好きなように解釈しています。

    除夜の鐘の申し込みがもっとあるかと思いましたが
    意外と少ないものですね。
    定員より多すぎても困るし、足りなくてはさびしいし。
    まあ 少なかったら何回も撞いてもらえばいいけどね。

  • #2

    今井一光 (木曜日, 04 12月 2014 20:23)

    ありがとうございます。
    当日お参りにきた人をつかまえてランダムに撞いていただいてもいいですし
    まったくその時の状況によって「何でもアリ」になるかと思います。
    「なんかやってる」ということで・・・