忘れ去られた記憶から消したい負の歴史?

相良菅ケ谷地区の御門徒さんは当山開祖の今井権七と共に近江から下った五家のグループのうちの1つ、その末裔の皆さんです。

特にこの土地のみに特化した如くの「不安」を思われたり口にする傾向があるようです。

 

それはわれら「生きとし生けるもの」の抱える共通の思い、「生老病死」についてです。

本来「おまかせ」のウェイトの強い部分(他力)でどうにもならないところといえばそうなのですが、それだけに不安が増長し、その「理由」を他所に求めたくなってしまうようです。

 

理由なんて無いのですがそれを探さなければどうにも自分が安堵できない。理由が他者から見てたとえ「こじ付け」や「荒唐無稽」な占いの類であっても何かを「確定」してもらわないと気が済まないという感情でしょうか・・・

私がその理由を言い当てるとしてそれを敢えて言えば「人間だから」ですね。この論ではやはり「どうにもならないこと」ですので皆さんを納得させるには今一つなのでしょう。

 

その伝承とは、谷に平田寺さんの所有となっていた約30坪の竹藪があるということです。

 

という関連で私は今回、その不安を少しでも解消していただこうとあの山にあがったワケです。

勿論そちらでの勤行にどの程度の効用があるかなんぞ私にはわかりません。しかし少なくとも施主の気持ちに近づいたであろうことは、安堵の表情と感謝の言葉を聞いてわかりました。

 

当山先代の父も例年この地にはやってきていましたが、そういうテーマに関して「無意味」を決め込む傾向にありましたので先方もそういった事情は話せなかったのでしょう。

真宗には因果の道理はそういうところに見出すことはしないのが常ですので無理も無いところでしょうが・・・。

 

さてこの谷にあった「静岡監房菅ケ谷外役所」の死刑囚の過酷な労役について昨日記しましたが付け加えて悍ましいとしかいいようがない伝承があります。

 

偶然昨日は三代に渡って「井戸掘り」の仕事をしている家の法事をしました。初代が新潟出身の御門徒さんで、この相良油田の掘削に単身やって来た方でした。相良油田が廃坑になって途中、お父さんは九州方面に行っていたそうですが、三代目は現在井戸や天然ガスの掘削工事を主にする会社に。

御当人は大深度が担当だそうですが、最近では液状化の問題があって耐震化のボーリングと杭打ち、地震計の設置等を担当する部署もあるそうです。

 

ちなみに液状化対策で5~10mのパイルでは「無理ではないか」と仰っていました。せめて50m以上は欲しいと。

関東では3000mでも岩盤に到達しない場所があるそうです。

 

相良油田で昨日のブログでは約200mの掘削の数値を記しましたが、実際のこの地の最深井戸の掘削深度は400m近くはあったそうです。

現在そのような手堀りをしている井戸は無いでしょうが、当時のこの手の要所で極限までのリスキーな場所に死刑囚たちが振り分けられていたというのは、やはり明治初頭の日本人の「人のいのち」に対する考え方が未開発であったことは違いないところです。

 

「死刑囚だから致し方ないだろう」という考え方もあるかと思いますが、その考えは前近代的ですね。

そしてその死刑囚ですが、実際に現在の「強盗殺人」の如くの凶悪犯罪は勿論散見できますが、目立つのは地方農民による「徴兵制度反対」の騒乱に対する罪です。

 

その手の集会から発展させる騒動の指導者に対して極刑の断罪がくだるのですがいわゆるその人たちは地方のインテリレベルだったことがうかがえます。

そして何より、まともな裁判制度の下ではなく、公平性に欠けた恣意的な判断がくだされていたことは間違いないところでしょう。

 

その伝承について記します。

地元ではあまり掘り返されたくない歴史なのかもしれませんがまず事実から。

この谷には平田寺さん所有だった竹藪が30坪ほど浮いたようにあります。だったというのは今は違うということです。

 

不思議ですね。平田寺さんはこちらからは相当距離が離れています。

聞くところによると元は近隣の大聖寺さんの地所だったそうですがいわくつきの土地だということで一旦は平田寺さんに寄贈されたものの、結局は戻されて地元管理となったという経緯がありました。

寺では管理しきれないということでしょうか?

 

これからは伝承です。

①この近くにはかつて鍛治刀工があってその刀の試し斬りに罪人を斬る処刑場があった。

②こちらにも石油井戸が掘られていたが、相良油田廃坑と同時にお役御免で「用無し」となった死刑囚を現場処理とばかりにこちらの井戸に投げ入れた。

というものです。

 

当地にこれら不憫な方々の血が流れているという古くからの伝承が今こちらに住む年配の方々の不安として現われているのでした。

全国にはいたるところにそのような隠れた、また隠された歴史が存在することでしょう。


私はこういう事例は隠さずにオープンにして、建碑し、由来を記した石碑など建てるなどし、法要や御礼の祭典などを企画すればいいと思います。地域の交流の場として発展する可能性も秘めているのですがね。

 

①画像が竹藪。②の大きなヤマモモのある小山は不明。

その左上に見える丘陵が2個の墓石のあった山です。

 

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (日曜日, 16 11月 2014 08:50)

    原へ上がる道を車で走る時、いつもあの林は何だろうと
    思ってみていました。
    田んぼの中にこんもりとした林、中にお宮でもあるのかと思っていました。
    なるほど 納得いきますね。
    道の反対側に友人の家があり、遊びに行ったりしましたが
    そんな話は聞きませんでした。
    友人の家の玄関には油井戸を掘る小屋の写真が飾ってありました。それはその家から反対側の油井小屋を撮影したものでした。
    その友人は大崩で事故死し、その時の車のペチャンコを思い出しました。
    菅山、油井、と言えば思い出します。

  • #2

    今井一光 (日曜日, 16 11月 2014 17:27)

    ありがとうございます。
    凄い思い出ですね。
    そういうことの積み重ねに偶然ではない、何かを感じてしまっているようです。みなさん。