「山光無古今」 美術館病の「憂き」 久能山展

樋口一葉の「憂き」のつづき。

所用で行った静岡、駅前の静岡美術館で開催中の久能山東照宮展を覗いてきました。

立地もさることながら鳴物入りで建設された葵タワーの美術館は拝観料ちょっと高めの1200円。

学割はありますが大家族で入館したら涙がこぼれそうになりますね。時間調整で入りましたが贅沢な時間でした。

 

しかし私には最近、その手の美術館等に詣でると体調が絶不調に陥ることがあります。私はこれを「美術館病」と勝手に名づけていますがあの不快感を味わうと簡単に美術館へ行こうという気が起こらなくなってしまいます。

 

原因は「眼精疲労」それに他なりません。

薄暗い館内で小さな説明文や展示物の詳細を目を凝らして焦点を合わせんとその緊張感を持続することによって「頭痛と肩こり」が発生するというメカニズムだと思います。

よって美術館を後にした直後から首のまわりから鈍痛が始まって最悪クラクラするほどの頭痛に襲われることになるのでした。

 

さて、標記は「人事有憂楽」につづく言葉です。

「人事有憂楽 山光無古今」。

意は「人間世界には憂楽あって心悩ますが(不安・無常)、自然世界にはその手のことはまったく無い(不変)」ということでしょうか。

美術館の出口で見かけた軸に記されていたのがこの「山光無古今」で今回の時間の中では一番に印象に残りました。

 

出口ということは殆どオマケの部類、徳川宗家十六代当主徳川家達(いえさと)の書でした。

幕末から明治の荒波に翻弄される中十五代慶喜から徳川家を相続し、将軍職ではなく駿府藩藩主、静岡藩知事となった人ですね。駿府府中の府中から静岡に名称を変えた人でもあります。

 

その彼が「山光無古今」という「達観」とも思える書に「なるほど」と頷かされたというわけです。

詠む人は前段の「人事有憂楽」がありませんから、それについて知らなければ何の事やらまず理解できない文言です。

その言葉こそ彼が記せば野暮にもなりますので、後段のみを記したこの書にはその彼の心中まで読み取れるのではないでしょうか。

明治維新は彼にとって大いなる「憂き」であったことは間違いないところでしょう。

 

時として人々に牙を向く自然ですが、それこそ往古からの不変であり、すぐれた美しさも兼ね備えているもの。

特に「落日」を経験した人は尚更それらに造詣を深めていくのかと。

画像は国宝の彩色が施された久能山拝殿。