憂きはお互ひの世におもふ事多し 十三夜

昨日の台風18号は当地にとって最悪のコースでした。

浜松辺りに上陸して牧之原台地を横断、焼津辺りから駿河湾に抜けさらに小田原から横浜を通過して北東方向に抜けていきました。よってテレビ画面から流れる被災地の様子は私にとって結構身近だった場所ばかり。被災にあった方々には本当に大変な一日でした。次に19号が控えていることもあり、今週末も用心しなくてはなりません。

 

横浜辺りで土砂崩れがあると遠方の方などにはあまりピンと来ない部分があると思いますが、あの人口密集地は意外ですが山谷の連続の場に貼りついたものが多いのです。横浜はアップダウンだらけで住みやすいという地では無かったですね。

冬場での降雪時など丘の上への往来はあきらめなくてはなりません。歳を重ねて、足腰が不自由になった方々が外歩きが出来なくなった身について溜息をもらしている姿をよく拝見したものです。「タクシー呼ばなきゃ買い物にも行けない」と。

 

河川の氾濫があった牧之原市内でもおかげさまで私の住む海岸沿いの地は平地ながら水はけが良く、当家では重大な被害はありませんでしたが、何しろ暴風雨の横殴りの雨となって壁のクラックからの浸水がありました。本堂も古い雨戸の隙間から内部まで雨水が染み込んでいました。本格的な清掃作業は台風一過となる本日、行う予定です。


台風が上陸したその時、私は御前崎のホールに向かっていました。

沖縄でのそれを彷彿とさせるが如くの暴風雨の比企の道を通過し池新田まで。途中停電で信号は消えていますので交差点への注意は怠れません。ホールでの仕事は出棺のお勤めです。

今回の葬儀は山形出身の御門徒さんで、山形のお寺さんの代行ということになります。

途中から停電し和ろうそく1本の中での法務でした。

 

間衣輪袈裟に足袋・草履の姿というものはあの天候に対して為す術は無く、傘ではなく大き目のバスタオルを被っての対応でした。傍から見れば見苦しい無恰好でしょうがその姿を見届ける人は誰も居ないほどでした。


このような天候の場合、施主さんは往往にして申し訳なさそうに恐縮されることは必定ですので、できるだけ「何でもない どーってことないよ」という顔をしてニッコリしていることが肝要です。余計な心配をかけては気の毒ですからね。

遺骨あげの頃には天気は快晴となって無事葬儀式を送ることができました。ありがたく思います。

 

さて、一旦はあきらめた「十三夜」、台風のおかげ?で雲が大目ながらも月は顔を出してくれました。「十三夜」ということで「旧弊なれどお月見の真似事」(樋口一葉「十三夜」)、枝豆や栗栗を食しました。

④は先日京都で仕入れた栗のお菓子です。「栗阿弥」などという名称、目が留まらないワケがありません。足利義政や浄土系の臭いがしたものでつい手が出てしまいました。

 

「智相院釋妙葉」は樋口一葉の法名。24歳の若さで結核で亡くなりました。①は5000円札でお馴染みの彼女です。築地本願寺の御門徒だったようですね。

彼女の短い生涯のうちの数限りのある作品の中、短編の「十三夜」は江戸時代を引きづった明治の社会のお話で、当時の人間の感覚というものが今とはまったく違うということがとても新鮮に感じます。

 

はっきり言って人間の有りようというものが今とは正反対という感覚なのです。イイ悪いの問題では無く、人々に忍耐・我慢があったということに大きな違いを感じます。

主人公の女性が夫の虐待に耐えきれず子供を置いて実家に逃げ帰るのですが、何とか父親に説得されて夫の元に戻るというストーリー。

夫の家へ帰る際に載った車の車夫が偶然にも幼馴染の懐かしき人だったというオマケの談もまたやるせなさ、いやその時代に生きた者を知ることができます。

「惜しいと言ってもこれが夢ながら仕方のない事」と言って別れるところもひょっとして今とは違うところ・・・。

 

標記の言葉、お話の最後に記されているものですが、現代人であっても誰もが「人生」を感ずる事ですね。

「憂き」とは「悲しみ」や「辛いこと」「悩み」の解釈でよろしいかと。作中に「幾層(いくそ)の憂きを洩らしそめぬ」ともありますね。

「十三夜」はネットで公開されています。

月の画像はダメダメでした。