焼夷弾2つ突き刺さって非貫通 不燃 「不去来庵」

当山大澤寺が江戸時代中期からの本堂を維持できていることは大いなる偶然が色々な面で重なっていることだといえるかも知れません。

その偶然とは、「戦時下の被災時代」に生き残ったこともその一つでしょう。

 

私たち相良は父親の子供の頃に浜辺でグラマンの機銃掃射にあった話を聞いていましたが、静岡という地は米軍の本土空襲の通過ルートにありました。

要は空からでもピンポイントに目標に出来る「ランドマーク、フジヤマ」があったからです。

 

V字型に太平洋に突き出た御前崎と富士山、点々と連なる島々と伊豆半島を目標にグァム方面から飛来したB29爆撃機と護衛機のグラマンはその日の目標がトーキョーであれば富士山から海岸線を東へ、名古屋方面でしたら西へ操縦桿を倒しました。遠州相良上空はB29の交差点のど真ん中だったわけですね。

 

爆撃は軍需工場など予めターゲットを決めた①250㎏爆弾を投下するピンポイント爆撃②民家でも何でも焼き尽くす街区への焼夷弾の投下③基地への帰路、それら余った爆弾の処理でしょうが、比較的③が多かったのが静岡だったと聞いています。

僅かながらの対空砲の被弾を想定すれば、着陸時のリスクをできるだけ除去したいもの。爆弾を積んだままの着陸などは有り得なかったでしょう。よって日本本土から離れるその「交差点」付近では爆弾を捨てるように落として行ったことでしょう。

 

「往復ビンタ」といいますがまさに駿遠は爆撃機の往きと帰りに被弾した場所でした。

それでも彼らからすればどうせ「捨てる」爆弾であったとしてもやはり効果的であった方がイイわけで、大きな軍需工場や軍の駐屯地も無く、人口がそう多くも無い相良あたりよりも静岡や清水に投下していった方がベストだということです。

その被災は26回に及んだとのこと。

 

多くの寺院たちが消失した静岡・清水・浜松・沼津・島田(原爆投下の候補地でした)とは違い相良地区に爆撃による火災の話を聞いたことが無いのはそのためでしょう。

おかげで当山大澤寺はこの最悪の時代を生き残れたというわけです。軍事施設(確たる目的)が相良にあったのならばそうはいかなかったでしょうね。

静岡の空襲被災の詳細はこちらへ。

 

さて昨日の門をくぐってすぐ左方向に曲がった図が①です。

こちらの御堂が「不去来庵」です。こちらの御堂の正式名称は「遍界山不去来庵」。

伊豆屋伝八(通称「伊伝」)の御先祖渡邊家が、京都の仙洞御所伝来の阿弥陀如来像を安置するために築いた御堂です。

阿弥陀如来は光格天皇(1771~1840)の御念持仏で仙洞御所に安置してありましたが天皇崩御後、浄土宗系の僧侶の手により流転しこの地に落ち着いたものです。

 

「流転」とは明治初頭の廃仏毀釈の時代のことですが、その際、各地で仏像や寺を打ち壊すなどと言うことが公然と行われました。ちなみにここ相良ではその直接被害についてもあまり耳にしませんので、いかにこの辺りの人々が温厚かわかります。

全国的な被害の割にはその風潮はあったものの非常に軽度で終わったことはありがたいことでした。

 

何しろあの知恩院の三門が明治二十四年、公売となって海外に流出しそうにもなったといいます。当時の金額で百円の寄進によりその「大恥」を守られたといいます。それら日本固有の文化を守ろうとする強い遺志の継承がこの阿弥陀如来に込められているのでした。

 

渡邊家がその阿弥陀さまを守るために立てた御堂の屈強さといえば特筆ものです。屋根は三州瓦が二重に葺かれているため空襲で2本の焼夷弾が突きささって発火もしたそうですが堂内にまで火が届かず焼失を免れています。奇跡的というか焼け野原の中にただ一つだけその御堂が建っていたといいます。堂の壁は一尺(約30㎝)厚の漆喰塗りのうえ外壁は伊豆石の石組みが施されています。

石の黒い斑点は火災時に出た内部の硫黄分とのこと。

 

画像④⑤は御堂正面の観音扉裏側の金剛力士像、鏝絵(こてえ)です。漆喰細工鏝絵師、森田鶴堂によるもの。

⑥は阿弥陀如来伝承に関わった福田行誠上人と諸々の方の塔。