小田原城総構の東側 家康陣場は安全地帯?

天正十八年(1590)の小田原の役での家康の本陣が今井陣場

德川軍3万の小田原攻城戦は参加することに意義があったのですが、酒匂川の背水の陣は、秀吉周囲にはヤル気を見せましたが既に勝負はついているという読みもあったでしょうね。

総力的に小田原軍城から討って出ることは無いと高をくくっていたか、そうであったとしても対応可能と踏んでいたのでしょう。


 たとえ東北関東からの北条軍が結集でき、有り得ませんが破竹の勢いで進軍する後詰があったとしても逆に酒匂川が堀の役目となりますし、小田原城が籠城を解いて家康軍へ向かったとしても今度は山王川が家康本陣を攻めるに時間を稼いでくれたはずです。

家康は計算ずくでこの2つの大きな川と川の間に陣を敷いたのでしょうね。

よって最悪の場合は小田原総構の淵を廻り込むように北方向に陣を引けば「どうにでもなる」場所でした。


 陣形状「最悪」を想定すれば御鐘ノ台守将の武蔵岩槻城主北条(大田)氏房辺りが討って出て総勢が南下し、家康軍の逃げ場が南(海側)にしか無くなった時ですね。

もっとも北側は秀吉勢がびっしり包囲していますので、ピンポイントで家康の首を狙うくらいの一か八かの計略でも無ければできないことでしょう。

家康は北条家の秀吉との唯一に近いパイプ役でしたのでそのような事態も想定しにくいところです。


  さて、小田原城総構からみて、山王川―酒匂川は対東方の天然の「二重堀」。小田原総構の東側の人工の土塁堀等を設け

防衛ラインは山王川より小田原城側(内側)になります。

 ただし、小田原城総構の東側は北側と違い大規模な遺構は一部を除いて残っていませんが、こちらは平地であって後世、住居地となって造成があったことと、江戸期になって東方向への(江戸に向けた)防御設備は「無用」であることから撤去されたとのこと。


 当山14世の私の父親が13世(祖父)の死によってここ小田原から相良に帰って寺を継承したのですが、その直前までお世話になっていたのが小田原市立新玉小学校(場所はここ)。

当時退職するにあたってかなりブツブツと文句を言っては家族に八つ当たりしていたことを思い出します。

考えるに私の場合は父より10年近く早く寺に入ったのですね。ということで息子には何とか早く自立してもらい私は「10年早く退く」というのが時間的目標になります。

未来のことはまったくわかりませんが・・・


 この小学校の東側には大きな土塁が残っています。

小田原城の北東方向はやはり「鬼門」ということでお寺が各所に散らばっていますがこの小学校の南東側に蓮上院さんや大谷派の善照寺さんがあります。これらの寺を目標に青いラインに沿って歩けばスグにこれら「高低差」を見付けられることでしょう。

この辺りはかつて「花ノ木」と呼ばれていました。当時の古文書から北条時代からそう呼ばれていたことが分かっています。蓮上院さん寺領が元でそれ以後武家屋敷になったと石碑に記されています。