木之本の「大澤寺」 佐久間盛政が乱打した鐘

当家と同じ「大澤寺」を名のる寺は全国に複数あるようです。

Wikipediaでヒットする検索名では、ある「一つの寺」に関して記しているようでしたが最近「曖昧さ回避」という Wikipedia特有の記事誘導手法によって複数の大澤寺が併記され、その中に羅列されていた全国の「大澤寺」の中に当山の名もありました。

これは一つの記事名に複数の意味があるときに、それぞれの意味を簡単に記述してリンクさせるものです。

 

 そもそもWiki等の記述は「任意の記述」「類推で主観的」といったものも混在していて、複数の固有名称がある場合等は往々に先取特権的であり、同様名称を名のる他者に対する不公平感は少なくないものがありますね。

 

 最初からA=1Aでは無く、A=1A or 2A or 3A or 4A・・・というような記し方が適切でしょうし、むしろ記事に好感が持てるというものです。

 

 どちらにしろWikiページで折角上記のような処断がされて当山のリンクが貼られましたので、近々当大澤寺のページを記そうと思っています。

現在は「工事中」になっています。

 

 その「曖昧さ回避」に羅列された「大澤寺」に近江長浜は北国脇往還、木之本の「大澤寺」が記されています。

黒田家発祥の地からはほんの僅かな距離で、私は以前からこのお寺には訪れてみたいと思っていましたので春先の当地散策時には当然の如く足を延ばしていました。

当山と同じ名称でありかつあの賤ヶ岳の麓にあたる場所ですからより興味をそそられました(場所はこちら)。

 

 厳密に言えば余呉湖の南から東にかけて湖を囲うよう「賤ヶ岳」の尾根づたいにある「大岩山」の麓と言った方がいいかも知れません。

寺の奥に「大澤神社」があって古くから「水の出る谷あいの地」を連想、そのような面影が残っています。「大岩山の大沢」とも考えられます。

 

 こちらの古い寺には、戦国ファンを唸らせるような梵鐘(高さ101㎝ 龍頭高17㎝ 鐘身高79㎝ 最大径63㎝)がひっそりとぶら下がっています。一応は木之本町指定文化財になっていますが・・・

 

 伝承は天正十一年(1583)の賤ヶ岳合戦に柴田勝家の家臣佐久間盛政が羽柴秀吉の着陣を味方に知らせるために打ち鳴らした鐘であるといいます。

 

 史料的に面白いので銘文を写して記します。

室町時代(応永十九―1412)とあります。上記のような伝承もある梵鐘でしたら地方の文化財としておくには勿体無い代物だと思います。

 

 池間の陰刻

「近江国伊香郡中庄黒田郷大沢寺之鐘事 領家方村人 右修理田者成国名内三反半 一反半者修理田 二反半者鐘撞給也 応永十九壬申九月十四日 地頭方村人敬白 大工兵衛尉八田郡守友」

 

 私は「地頭方」という呼び方が歴史上まったく相良とは違う湖北の地でお目にかかったことに感動しました。

 画像①~④が木之本大澤寺。門前には五輪塔残欠が・・・お出迎え⑤大沢神社⑥黒田神社。ごく近隣です。⑦は正面が賤ヶ岳で橋を渡って大澤寺があります。