当家文書に残る小笠原与八郎と高天神城

当家に残る古文書「当家由緒記録写」というものがあります。

江戸初期に記されたものでしょうが、「写」とありますので

原本では無いことが分かります。

元々当家にあった文書で、外には出ていませんので、「写」については原本が虫食いなどで痛んで止む無く書写したくらいのことだと思います。

 

画像 当家文書抜粋

『~拙寺住職と相成り 其砌(節)近辺 高天神と申所有之其地ニテ 東照宮様 小笠原与八郎と御戦ニ相成 其節拙寺諸堂境内が東照宮様御陣場と相成御勝利夫ヨリ拙寺相良近辺大沢と申候山間へ寺相移し処へ引越暫其大沢ニ住居仕候其後 東照宮様相良へ被為成御越年ニ相成 御殿御立被遊候処相良境之芝間ニ~』

 

 安土広済寺門徒の地侍、当家初代の今井権七が赤松本楽寺の叔父さんと遠州土方の高天神城近く(平尾―現菊川)にやって来たのは信長が足利義昭を奉じての上洛戦、近江観音寺城の六角義賢(承禎)を追い払って、安土が信長の地となった永禄十一年(1568)頃でしょう。

 

 真宗門徒が信長領内での安寧はありえませから、近江を捨てざるを得なかったわけですね。当時の状況からして妥当な考えだったと思います。

 

 そこに元亀元年(1570)石山合戦が勃発します。

宗門の危機と信長に一矢を報いるという大義もあって、今井権七は大坂と遠州平尾を行き来していたと想います。

 

  大坂では石山本願寺で戦働き、戦が休戦状態になれば家族の待つ、天台宗だった叔父さんの寺(真宗に改宗)、本楽寺の名をそのままもらって建てた遠州平尾の地に戻ります。しかしその地も武田と徳川の戦場と化していました。

 

 その頃、元亀三年(1572)の三方原で亡くなった成瀬藤蔵正義の妻の禄(釋妙意)が遺児を連れて本楽寺に入っていました。どこかでも記していますが、叔父さんは廣樂寺(現掛川)、権七の息子の二代目が西林寺に、三代目としてその成瀬の遺児が婿入りしています。尚、二代目が平尾に戻って西林寺を創建したのは勿論、成瀬の遺児を住職として継がせるために他なりません。当時の寺のスポンサーだった家康の意向が働いている可能性もありますね。

 

 さて、当山に残る文書は天正三年(1575)のいわゆる第一次高天神戦の事が記されている部分です。

「東照宮様 小笠原与八郎と御戦ニ相成」の表現は相当端折っています。

 

 そもそも小笠原与八郎(長忠)は家康(東照宮様)の元で高天神衆を率いていた人です。

その時も家康の対武田の城将(高天神城主)として徹底抗戦を期待されていた人であったものの、奮戦には至らずに勝頼の調略を受けて開城してしまったという経緯がありました。

 

 まぁ家康はじめ家臣団にとっては相当のガッカリ感があったことでしょう。伝承によればその際の徳川軍退去の混乱で本楽寺は焼失しているといいますので、当家御先祖様としては「小笠原憎し」の意がついついその「筆」に影響してしまったのではないでしょうか。