福島(くしま)の高天神は馬伏塚の小笠原へ 了教寺

今川時代の福島(くしま)氏の土方城(高天神城)には西の備えとして馬伏塚城がありました。

 

 今川氏親時代に信州の名門小笠原家から分かれた一門が尾州経由で馬伏塚にやってきて定住したといいます。

高天神を預かる福島家に付き頭角を現して、馬伏塚城の城主となったという感じでしょうか。

しかし名門小笠原家で尾張滞留中に今川と同じく将軍足利家流の三河吉良家から嫁を娶っていることから、特別待遇であったことは確かです。

 

 福島氏については出自について、同系について色々と説が交錯していますが、昭和30年代に記された増田実氏の「高天神城址案内」の言葉を借りれば、だいたい端的にいって「そうだろう」と曖昧ですがそのように理解しています。

 

『文明十一年、今川義忠が塩買坂で討死した時、家老三浦二郎左衛門、朝比奈又太郎、久島(福島)上総介、同土佐守 乱を興すとある。―駿国雑誌 また天文五年四月今川氏輝卒し今川義元兄、花倉良真との家督争いにも、福島は花倉の一族のため、正成死後綱成は、去って北条氏に仕えたと思われるが、結局高天神城主は福島正成が飯田河原に討死して、馬伏塚城にいた小笠原氏が、衆望あって高天神城主を命ぜられたと思われる

 

 その馬伏塚城の初代城主が小笠原信濃守長高で二代小笠原春義(春儀)の時に上記今川家の家督争い「花倉の乱」が起こって、義元方についた馬伏塚の小笠原家が高天神城の福島氏を一掃、高天神と馬伏塚の両城を得たということです。

 

 その後強大威勢を振るっていた義元が桶狭間で没して今川氏真の時代になると今川家の凋落期を迎えます。

三代目の氏清(氏興)の頃ですね。

そこに家康は既にお膝元ともいえる三河を平定して、子飼いの三河武士団を完全掌握している時期でした。

初代小笠原長高が三河に残した子、のちの三河小笠原氏の一人を高天神の氏清の元に送り「今川を捨て三河につくべし」と調略したといいます。

 

 その子が高天神城では一番に名を遺した小笠原与八郎です。信興とも氏助ともまた氏儀、そして一番有名な長忠という名があります。この人が姉川七本槍を率いた高天神衆のトップです。武田勝頼について東退の選択を採らなければ彼の人生も変わっていたでしょう。

 

 小笠原家は多様に渡って歴史に登場します(今も「〇×小笠原流」というものが何とも多く残っています・・・)。

ただでさえ「小笠原〇〇」という名は多くありますのでこの与八郎の色々な名は紛らわしく思います。

「氏」は勿論今川家の偏諱ですね。

まぁ主君を変えれば旧主にもらった名前は要りませんからね。

 

 画像は旧馬伏塚城内にある了教寺(場所はここ)。

この辺りは「岡山」という地名で、岡山公民館の裏手になります。

了教寺には三代小笠原氏興(氏清)の墓があります。

家康の誘いに応じて今川を見限り、その後の家康の駿遠の経営を盤石にするに力を貸した人です。

永禄十二年(1569)に馬伏塚城にて41歳で没しています。

 

 高天神城が落城したあと、横須賀城にあった大須賀康高の命により小笠原氏興(氏清)の菩提を弔うため、馬伏塚城内に了教寺を建てたのが竹田重右エ門という人です。

のちに家康が鷹狩で氏興(氏清)の墓前を通った時、「忠功の者」と言って下馬したと伝わります。

 

 今は小笠原氏興(氏清)の五輪塔の脇に寄り添うように宝篋印塔らしきパーツが並んでいますが基台には重右エ門の名があると言われます。