小笠原与八郎長忠とあるが・・・小笠養徳院

姉川で大活躍した小笠原与八郎は結果的に家康に反旗を翻し高天神城を「東退」(武田配下になる)したことは確かですが、与八郎の行動は、決戦を避けて籠城軍の無駄死にを避けたということである意味賞賛すべきものと思います。

 

 戦国時代においてそのことは勿論許されない叛意ではありましたが、小笠原一統から出た与八郎に関して家康はその「家」、一統に責任を負わせることはしませんでした。

小笠原与八郎以外の小笠原一族が西退(家康方)を選択していることもあり、ある意味止むを得なかったという気持ちも驚きと悔しさの中にあったかも知れません。

 

 武田勝頼に高天神城本曲輪の喉元まで攻め込まれたとはいえ家康を待たずして開城の決断をした与八郎はその時、かなり「民主的」ともいえる合議を行っています。

 

 勝頼も太っ腹で「命の保証」とどちらに合力するのも、逃れるも「自由」と、開城にあたっての条件を出していることも無能との評価が世間一般的な勝頼の好感度はアップですね。

 

 我らの大御所様(家康)はそれに反して、武田方に落ちた攻城(第二次高天神城)の際、岡部丹波元信の降伏開城を突っぱねていますから。

 

 さて、高天神城主兼務で馬伏塚城三代目の小笠原氏興(氏清)の五輪塔を紹介しました。

馬伏塚二代の小笠原春儀あたりからの増田実氏の「高天神城址案内」の記述を転載します。

 

『大永元年(1521)小笠原右京進春儀城主となる。初め長氏とといい、左京進、右京太夫(寛政譜) 元亀三年五月十四日没す 墓地 小笠小笠町河東 養徳院。

天文十一年(1542)小笠原弾正忠氏清、父の職を継ぐ。

左京進美作守(寛政譜)(一書美濃守氏興)

永禄十一年徳川氏に属し、同十二年六月十一日卒す。

四十一歳法名天岳寺殿清岩泰翁大居士、磐田郡浅羽町字岡山天岳寺に葬り、後 今の了教院に写し墓石存す。

 

永禄十二年(1569)小笠原与八郎長忠(氏助、初め氏義)弾正忠(寛政譜) 父の家督を継ぎ、初め徳川氏に属し、天正二年武田氏に降る。

弾正少弼信興と改む。武田氏亡び小田原に奔り、天正十八年小田原落城の際、徳川氏のために斬られた。

高天神小笠原家譜には、程なく病死、法名大普、遠州カンマ(蒲―現在の浜松市芳川)の西伝寺に葬るとある。

 

また、武田勝頼の与八郎への開城への優遇(国替え)を記した判物があります。

 

『駿河国於富士之下方一万貫文之所 遠州城飼郡に引替被下置之永相違有間鋪候 畢竟無疎略嗜武具抽戦功之忠者也依如件 天正二戌年 七月九日 小笠原与八郎殿 

                   勝 頼 判』

 

 要は与八郎は駿河の富士郡にて一万貫文を安堵されたということです。

この昭和38年に記された増田氏の書にある、「小笠原右京進春儀の墓」の記述、「小笠郡小笠町河東」 の養徳院さんには当然の如く私は訪れています。

 

 小笠原系というと浜松の西伝寺さんといい横須賀の撰要寺さんといい浄土宗のお寺でしたが(ただの偶然?)、こちらの養徳院さん(場所はここ)も浄土宗です。

 

訪問してびっくり、新しい墓碑でしたが「春儀」の名では無く、「墓地不詳」のはずの「与八郎」の名に。墓碑供養塔としてありました。

新しい発見、楽しい墓場歩きでした。