湖岸の道路淵(西近江路)に 坂本城本丸跡

行き当たりばったりでの「坂本城」、最初にあの四つ角の石柱に辿りついたというのは試練でした。

地図でもあの様ですから間違ったとしても当然ですね。

 

 しかし坂本城は他の琵琶湖岸に作られた城と同様に、本丸から舟で湖面に出入りできるくらいの立地でなくてはおかしいのです。

 

 というわけで湖際の比較的交通量の多い161号線まで出てしばらく歩くと「なるほど」と合点がいったというところです。地図には「~公園」と記されている場所が「ビンゴ」でした。

 

 安土城の完成よりも先にこの坂本の湖面に「天守」の姿を映し出していたということも画期的ですが、坂本の地に信長が明智光秀を置いたのは、光秀に対するただならぬ重用の意思が窺えるのでした。

 

 そもそも信長の安土城の殆ど対岸という要衝でもあり、勿論安土との直行舟など水上交通も確立していたことでしょう。

また、昨日この坂本の街道を「京都から木之本等北国街道へ抜ける」と記しましたが、志賀越道(しがごえみち)が正式名。

 

 万葉集にも登場する崇福寺(すうふくじ―廃寺)経由の志賀峠越え、「京都七口」の1つである「荒神口」ルートです。

別名として山中越、志賀越、今道越、白川越等の呼名でも歴史上登場していたようですが、現在では廃れて、京都との連絡にこの道を使う人は居ないでしょう。

 

 しかしこの街道は古代から室町期までは京を狙える要衝中の要衝だったのです。

イメージとしては「坂本」=「京都に王手」という場所だったかと。

 

 安土と同様焦土化した坂本でしたが、「安土に次ぐNO.2」と言われた城。両城主の信長・光秀亡き後の清州会議以後、その坂本に入ったのは秀吉と同調して信長の嫡孫三法師を推した丹羽長秀でした。

 

 この坂本を持つという意義が「天下を狙う」と通じる可能性があるので「それはまだ早い」と秀吉が「空―そら」を使っていたともいいますね。

 

 画像⑥⑦保養所らしき建物の湖岸には夏期に水が引くと城の石垣が出現するとのこと。⑧その施設の正面道路沿いには「本丸跡」とある石標が。

石質が凝ったのか上等そうですが目を凝らさなくては読めないというのが痛いところ。

近くには「明智塚」⑨⑩なるものが。撮影時は今年の春先でした。