「有無同然」と雖も、まぁ色々「ある 」

最近の通夜・葬儀は葬祭ホールばかりでお寺での葬儀ときたら寺族親族ばかりですね。

そういう傾向から、曲彔(きょくろく 曲禄)という法会用椅子に座する事が多くなり正座をする機会が少なくなりました。

 

 先だっての近隣御寺院の前住職の逝去の際の仮通夜には参上させていただきましたが、他宗派ということで「式次第」の先の読めない状況下にあって、お恥ずかしいことながら膝の痺れ(というか過剰なふくらはぎへの血流制御=エコノミー症候群助長作用)の起こる「正座」となり久し振りに「無痛、下半身無神経状態」に陥りました。

 

 その日の体調や気温によっても症状の発現に差異がありますが、そういう時は終了の合図があってもスグには立たないのがコツですね。

徐々に徐々に・・・まず「爪先立をしつつの立膝」のような姿勢になって足指に血流を再開し踵を回すなど感覚を戻しながら立てばOKです。

勢いよく立つなどという邪道はいけません。

 

 というわけで「座禅」という作法が無い真宗寺院では椅子の導入が進んでいるようです。

当山でも椅子を整備していただいてから法事での参拝者は皆笑顔になっていますね。

といっても導師たる私は正座です・・・

 

 さて、当山での久しぶりの通夜・葬儀は当山前住職のものになりました。

あらましとしては以下、御あいさつ文を転記させていただきます・・・。

 

            

釘浦山大澤寺前住職、法輪院釋祐英 今井文英は、療養中のところ五月六日 八十六歳を以て還浄いたしました。

ここに謹んで生前のご厚情を深く感謝し、お知らせ申し上げるとともに次の通り寺葬を執り行いますので、ご多忙の折り、誠に恐縮ではございますが、御会葬たまわりますようお願い申し上げます。

平成二十六年五月七日 釘浦山大澤寺住職 今 井 一 光

                      世話人総代一同

 

一  日時 平成二十六年 五月十一日(日) 

         通夜 午後四時

 

一  日時 平成二十六年 五月十二日(月)   

         勤行 午前九時三十分

         出棺 午前十時三十分

 

一  日時 平成二十六年 五月十二日(月)

         葬儀 午後二時

 

 こういう内容は「さて、どうしたものか」と当初思案しました。

やはり通夜当日になってしまいましたがあくまでも「ご挨拶」としてお知らせすることといたしました。

このブログには遠方各地お世話になっている当山ご縁の皆様もいらっしゃいますから。

 世話人会では、遠隔地からの参拝を促すこととなってしまい、無用の心配をかけることにもなるので当地近隣の門信徒による「檀家葬」にし、後日その内容をお知らせすればよいとの決定がなされていました。

 

 しかしながら、事前に記すべきことも、このタイミングならベストであると判断し、お知らせすることとしました。あまりにも直前です。

 

まず事の顛末を記します。

 

 当山14代住職は私の父でもあります。

昨年10月7日に前坊守(母)が転倒、骨折していたのですが8日が当山のバス旅行だったため、症状の把握が遅れて榛原病院への入院のドタバタが9日となってしまいました。

 

 母が転倒した際、実は父も転倒していたようなのですが、よりによって母が不在の時、何かしらの症状の出現が出ていた可能性があります。

たしか9日はずっと部屋に籠ったまま寝ていたように思います。

10日午前になってからフラフラと私の所に父がやってきて母親の心配をする言葉をかけてきました。

 

 その口調を聞いてすぐさま私は父親を着替えさせ、外に連れ出したという次第です。呂律が回っていないことが分かりましたので脳梗塞の症状を疑いました。

当初医者に行くことを拒絶して部屋に戻ろうとしましたので、「市の職員が面談に来る」等の虚事を言って説得、着替えさせて、車に載せて前日同様に消防署へ。

救急を「呼ぶ」のではなく「行く」という方法です。

けたたましく大音声でやってきて家の前の細い路地を塞いで、行先待ちをする様子は毎度見ていて、スマートではありませんので。

判断しかねる場合は現場の判断を仰ぐというものですね。これは自立歩行できる場合の限定ですが。

 

 まさか2日連続で救急車に添乗同伴するなどとは思ってもいませんでしたが、案の定、父が向かった先は島田市民病院。

ブログでも触れたことがありますが、「整形外科と脳外科」は榛原病院に医者がいない事が分かっていますので、本当にこの時も「ヤレヤレ感とため息」でした。

 脳卒中・心筋梗塞での患者が多発する中、救急車内での待ち時間と実質の病院までの距離は「致命的」になっていることを目の当たりにしたものでした。

 

 一刻も早い対応を要するその「待ち時間」は何故にあるのかといえば、それは「受け入れ先探し」の時間なのです。

要は先方様(病院)の都合です。

 

 今担当がいるのか、その手が空いているのか等、受け入れ側への「おうかがい」をたてることです。

牧之原市民よりも相手先病院管内の住民(ここでは島田市民)の方が優先されることは致し方無いといえばそうなのですが、空しさをも感じます。

当然に相手先が「キャパを超えている」と判断されれば、次の病院に問い合わせをすることになります。

焼津藤枝静岡浜松沼津等々・・・

 「こういう時は即榛原病院!」というシステムがしっかりあれば15分程度で病院に行けますので、そういう意味では不幸な市民ですね。牧之原市民は。 

 現状島田市民病院に受け入れが決定したとしても、60分はかかってしまいます。これでは生きるというチャンスもなくしてしまっています。

 

 父の場合、カテーテル施術となりましたが4時間近くかかって結局「未開通」。施術前は病床で「バカ話」をして爆笑していたくらいでしたが、術後はそのまま意識が戻らず11日午前に心肺停止の連絡がありました。 

 

 葬儀の準備を行いつつ病院に赴くと、何と「心臓が動き出したので人工呼吸器に繋げた」との報。

その後数日で自己呼吸まで回復しましたが、島田では「全回復不能」の処断となって退院させられることになり、再入院した榛原病院東病棟に以来意識が無いまま御厄介になっていたというわけです。

 

「榛原」の方も5月中まででの退院期限が迫って次は御前崎病院に入る予定でした。

人生の最期7か月は病院のベットの上で送った父でした。

 私が胡桃やAEDなど「余計なお世話」をしたのもそのような経験があったからでした。

 

 昨日、某施設へ既に入所している母に、「父のその事」を初めて話したのですが、あっけらかん。何らの感情の変化もありませんでした。「ふーん」という感じでしょうか。

 母の方の痴呆はそう進んでいないようで、むしろハッキリしていることが多いのですが、その母の対応はまったく「謎」ですね。

その直前に母に告げた母が懇意にしていただいていた御門徒さんの逝去の報には「まだ若いのに」と言っていたほどですから。

 

人生色々ありますが、特筆すべき「その時」なのでしょうね。

 

①島田市民病院②屋上から見た病院北側の図。この先に祥雲山慶壽寺、今川城があります。

 

なにはともあれ、ありがとうございました。