切支丹受難の地とその時代 尾張 栄國寺

名古屋東別院の近くに崇覚寺(そうがくじ)というお東の寺があります(場所はここ)。

  崇覚寺創建開基も言うなれば当山と同様、「石山本願寺崩れ」(失礼・・)、元は紀伊雑賀の門徒とお聞きします。

東別院の創建と同時期に当地に長島より移転し、東別院の脇侍の如く歴史を歩んだお寺です。

 

 崇覚寺には見やすくしっかりしたHPがありますので詳細はこちらへ。東別院等、興味深い画像が多く紹介されています。

 

 さて、やはり東別院近隣に徳川家取次宗旨、浄土宗清涼山栄國寺があります。

尾張藩二代の徳川光友の創建ということで、葵御門が光っていますね。

 

 こちらのお寺は「伴天連(切支丹)」~バテレン・キリシタン~を処刑した「千本松原」の刑場跡の供養寺院が始まりです。

こちらには供養塔「千人塚(切支丹塚) 」と「切支丹遺蹟資料館」がありますが以前ブログでも、そちらの展示資料を紹介したことがありました。

 

 「千人塚」と云えば尋常な数ではありませんがやはり処刑された人たちの事ですね。徳川家康による慶長十八年(1614)の切支丹禁教令から、しばらく経って(1631)から尾張三河に大弾圧の嵐が吹き荒れだし1668年頃までに当地の切支丹は根絶やしになったとのこと。ここにも庶民虐殺の惨たらしい歴史がありました。

 

 何故に当尾張地区に切支丹信者が多かったかと云えば、やはり信長時代の安土から、宣教師が流れてきたためですね。

当地尾張は信長の息が掛かった地であることと、秀吉時代当初においてもその家臣団が切支丹容認姿勢を取っていたため、布教が容易だったのかも知れません。

 資料館入場の際、本堂本尊阿弥陀如来坐像を拝観することができます。

 

碑文

尾張藩の初代藩主義直公ならびに二代光友公は、政道の基本を人間を生かす温厚誠実の精神においていたので 、万物の創造神を最高の主君と崇めつつ、同様の精神で忠実に働いていたキリシタンたちには寛大であろうとしていた。

しかし、キリシタン宗門禁制を強調する江戸幕府からの圧力のため 、寛永八年(1631)以来キリシタン伝道に努めた者たちを検挙し、処刑し始めた。寛永二十一年から正保二年にかけて(164445)は名古屋城中からもキリシタンが検挙されたが、この地で処刑された彼らキリシタンの霊を弔うためか町岡新兵衛は慶安二年(1649)この処刑地に石の供養塔を建立した。

 

寛文元年(1661)春以来数多くのキリシタンが尾張北部の諸村から検挙されると、尾張藩は、そのうち伝道に努めたと思われる男女二百余人だけを、寛文四年十二月十九日(166523)この地で斬罪に処し、他のキリシタンは赦免しようと努めた。

しかし、幕府の了承を得ることができず、結局検挙された二千人余のキリシタン全員を寛文七年十月に村方で処刑せざるを得なかった。

藩主光友公は、この地で仏寺を建立して彼らの冥福を祈らせたが、この度カトリック名古屋教区で、栄国寺側の好意溢れる快諾を得た上で、信仰のための彼らキリシタンの熱意と忠誠をたたえつつ 、この碑を建立する。1997年11月23日

カトリック名古屋教区長野村純一司教  撰文青山玄神父  

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (木曜日, 24 4月 2014 08:48)

    当時の切支丹から比べたら私など無宗教もいいところ。
    困ったときだけ都合良く神頼み。仏頼み。
    いいかげんなもんです。
    逆に そんなに宗教に入れることは幸せかな。
    そう思うこの頃です。

  • #2

    今井一光 (木曜日, 24 4月 2014 19:17)

    ありがとうございます。
    「都合よく」「いいかげん」は私も同様です。
    自らの「いいかげん」であることを知らないでいるよりもその怠惰を自覚して、「これではいけない、何とかしよう」、と目覚めることが仏教の教え(特に当流)でもあります。
    そして、自分の姿が見えてきた時、それもまた幸福なことだと思います。