再度「寺侍」考察 投稿ありがとうございます

清少納言や小心者の坊さんのお話で「僧のカタチ」について記させていただきましたが、今一度「寺侍」について御考察投稿いただきましたので記させてください。

 

ご意見の内容は・・・

 

①江戸時代の狭義の武士とは「特定の主君に仕え、主君より俸給を与えられる侍」と捉え、侍とは狭義の武士を包含する広い概念?

 

②幕藩体制確立期、主家の改易等で禄を失った侍が寺請け檀家制度の確立で急に事務・寺務が煩雑膨大になった本山、総本山寺院の事務方に職を求めた侍(浪人)が「寺侍」?

 

③ 家屋敷を没収(収公)され、お寺に職を求め得なかった浪人が空いたお堂、本堂の片隅を借り受け、近傍の子供を集め読み書きを教えたのが寺子屋の起源?

               

                      です。 

 

「寺侍」の名称は当初大寺院の実質的警備警察と寺の威厳維持の意図で寺に常駐した「武人」をイメージしますね。

江戸期で大寺院のみならずある程度の寺格を持った寺で寺内の雑務事務系まで取り仕切る職種として定着していったと思いますが、寺にいて僧侶とは違う「官職」を思わせる役を大雑把に「寺侍」と呼んでいたのかな・・と思います。

 そもそも「寺侍」という語彙も役職等の正式な名称では無くて確りとした括りも無いといってもいいようなもので、やはり推測の他はないでしょう。

坊さん以外の寺の厳めしい男を総称して言ったかも知れませんね。よって上記①②③とも大いに頷けるところでしょう。

 

しかし、当山に於いて私の知っている限りで記せば、

1.境内に当家とは血縁の無い家系の人が生活できる家屋が永ら

 く建っていた(寺雑務主要とは思いますが)

2.歴代住職は相良城に上り講座を持っていて通常、寺を不在にし

 ていた

3.寺に居る時は定期的に「講」を「経営」(コレはお金儲けの意

 ではなく ―準備・接待・育てるという意があります―)し子供

 たちへの説教・物語から始まった寺子屋らしきことも行ってい

 る

 

①②③のご意見はすべてそのようでもありますしまた他にも色々なパターンもあったかと思います。

 

私の勝手なイメージを記しますとその「寺侍の起源」は・・・と考えれば山法師・寺法師などの僧兵というものよりも本願寺の下間家を思いおこしますね。

 

下間家一統は代々本願寺に仕える家柄で本願寺が門跡寺院となってから「坊官」という歴とした肩書きが付く家系となりその役を世襲しました。

戦国期の石山本願寺にいたっては武闘派の武将のごとくとなって、また並み居る戦国大名や将軍家、公家との折衝窓口とまでになっています。

 

「坊官」とはもともと文人であり、下間家自体も出自は源家といいますが、親鸞聖人の弟子として関東(下妻)から付き従った坊さん(僧籍)がスタートです。

 

 このような形から考えると、法灯継承と法務というステータスシンボルである法主の存在に対し、寺全体、トータルで庶務・雑務・警務、時として警察・防衛・戦略まで取り仕切っていった職種が大きな組織には不可欠となって下間家がそれらを統括し寺内外に存在感を現していったのでしょう。

 

 江戸期に入ると末寺であっても檀家制度というシステムの中、寺が今の官庁的役割を持つようになってから「事務屋」という職への需要が増大し、彼らのことを「僧侶、僧行」と違うが「寺に常駐する人」のを総称して「寺侍」と呼んだのだと思います。

譬え百姓出身であったとしても算術、事務、儀式、法令に詳しい者が寺に入って雑務を取り仕切れば「寺侍」と称されていたと思います。

 

さて、慶長17年(1612)江戸幕府は禁教令を出してキリスト教を禁制として取り締まりました。

そこで始まったのが寺請け制度です。

すべてのお寺にその檀家さんが「キリシタンではない」ことを請け負わせるもので宗門改帳(のちに宗門人別改帳)なるものを作成する等、住民調査の仕事が発生しています。当時において比較的厳しい法令であったと思います。

 その職務についての反発であったと言われますが明治以降の廃仏毀釈による仏教施設打ちこわしの酷さから当時の寺請け制度の坊さんではない事務方・・・寺侍の横暴な振舞も推測できるところです。

 

 

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コメント: 2
  • #1

    今井龍弥 (火曜日, 15 10月 2013 07:00)

     有難う御座いました。お手数をお掛けいたしました。御住職の御蔭で曖昧な概念が釈然と致しました。
     廃仏毀釈の件は教科書には無い卓見で大変参考になりました。

  • #2

    今井一光 (水曜日, 16 10月 2013 06:48)

    ありがとうございます。
    浅薄にて恐縮です。
    「廃仏毀釈」という政府の「新政策」は、政策担当者たる幕府と檀家制度で庶民生活を掌握する寺との緊密な統制システムを解体するという意味もあったでしょう。
    そこに抑圧感から弾けるように大きな庶民の反動として寺を蹂躙破壊したという歴史事実は「崇拝の対象から破壊の対象」へ瞬時にそれも180°転換するという驚くべき真逆のスイッチを押すことになりました。
    その流れにのった庶民の怒りが原動力となって権威化した寺そのものへ向かって壮絶な破壊行為に繋がったのかも知れません。