古来から関ヶ原の封鎖は常套手段

爆発的な雨の後は大風に見舞われた相良、天気は悪くないのですが気温は真冬に逆戻り、外には出る気もおこらず、窓辺でうとうとしながらの読書~外仕事は挙げればキリが無いくらいありますが。

 この様な時間の使い方で「これでいいのか?」と自問しつつも、「住職」というくらいなのであるから、そこに「住まうことが仕事」なのだと、半ば開きなおるように浅ましく軽薄な感情が湧いてくるというのは、これまでずっとサラリーマン生活にズブっと浸って、その習慣が抜けきらないでいる自分があるからですね。

 

  平たく考えて、坊さんが暇にしていることは「良いことでしょうよ」と、とことん開き直ってしまいます。

 年初に阿弥陀さんに向かって「今年はお悔みに立ち会うことがありませんよう」と願ったとしてもあっという間に「それは違うだろうよ」と一蹴されて「生老病死」の四苦に、これでもかと遭遇してもがいているところです。

 

  本日は地区の夜間避難訓練の日。

寒風吹きすさぶ夜間の訓練は、担当の方々他、ご苦労のほどいかばかりかと心苦しいところですが、当家家族は風邪ぎみにつき大事をとらせていただきました。

私など喉の不具合は一向に改善に向かわず(蘇鉄切り以来)、5日毎にやってくる週末に穴など開けられないことは当然、これ以上の体調不良は許されぬと気を張っている状況です。

 特に訓練に参加される皆さんも相当に心身に厳しいストレスを感じられたでしょう、皆さんの「血管」の具合を心配したのは言うまでもないところです。

折角訓練に出て救急車で搬送されることなどがあったらそれこそ本末転倒ですからね。

 

 外を眺めているとバイクの郵便配達の方。

「奥の墓道」が苦労して買った例のライブの土産が届きました。

バスタオルには小さく、襟巻にするには大きすぎ、手拭きでは勿体ない。とりあえずネコ(梅王丸)に掛けてみました。

 

 さて、標記「関ヶ原」、誰でも思い浮かぶのが西暦1600年の東西分かれての所謂「天下分け目」の合戦。

石田三成が当初の籠城戦を視野に入れていた大垣城を出て関ヶ原に陣を張ったのは、やはり先にブログで記した「壬申の乱」を倣ったのかも知れません。当時の「天下分け目」は大海人皇子の「不破の道を封鎖せよ」から始まって迷惑混乱している東国からの兵を纏めあげました。

 

 先日も記しましたが古来よりこの地は鈴鹿山系と伊吹山系を分かつ街道筋にあり、かつ京滋と東国、鈴鹿大和そして東山道(中山道)への戦略上最重要の交差点だったわけですね。

壬申の乱で先手を打ってこの道を封鎖した大海人皇子が勝利したということからの連想で不破の関(場所はここ)の手前の関ヶ原で東から上る軍を味方に取り込もうとした三成でしたが、家康麾下の軍は結束固く結果として逆に自軍からの反旗もあって壬申の乱とは逆に不破道を封鎖した方が敗北したのでした。

 

 ちなみに壬申の乱の後、天下を治めた天武天皇(大海人皇子)が設けたのが「不破関」です。