畷の件の後ろめたさ 笹田源吾の墓と供養塔 長命寺

こちら木原畷古戦場(昨日ブログ)には小さな祠と墓石が建っています。

位置関係でいえば⑩の画像が国道1号バイパスから見た木原畷、左側の円内が祠。右側が許禰神社(熊野権現)です。

 

 この地区には三方ケ原戦いにおける戦没者供養という形で盂蘭盆に「遠州大念仏」というイベントがあります。

今では一種のお祭り気分、娯楽性の強いものですが、元はと言えば戦没者供養が発端。

 

 三方原とは天竜川を隔てて距離がある袋井市ですが、その手の伝承があって、こちらでは「木原大念仏」という名で伝わっています。

 

  全国には「○○の戦い」の戦没者供養などと銘打って祭典が執り行わることがありますが、元は往々にして「死んだ者に対する『畏怖』、どうか悪さしないでほしい」といった願望、現世に生きる者たちの現世利益が原点ですね。

 

 しかしこの現世の御利益、いたって身勝手なことで、騙し討ちにした、寄ってたかって皆でなぶり殺しにした、安堵させておいて見殺しにしたなどなど、そのようにして当初はその時の自らの都合で「抹殺」あるいはそれを黙認したものです。それが「手柄」としてご褒美が頂ける時代でしたからね。

 

 にもかかわらず、後になってから、少々やりすぎた、あそこまでしなくとも、あまりにも惨く残虐だった、という良心の呵責のようなものが当事者の心中に発現し、根拠は無いのですが天変地異や起こるべくして起こる周囲や自身の「老病死」までその「理由」をこじつけようとその件に原因を求めて、いよいよその自分たちの犯した行為に対する反省ともなって、「消された命」へ悔いる意味で建碑や石仏を建立、毎年の法要の催行を伝承してきたというのがその手の「祭り」でした。

 

 徳川方を一蹴した木原畷戦ではありましたが長篠戦の天正三年以降は完全に形勢逆転し、武田の駿遠の支城は、諏訪原城も落城し、高天神、小山城、相良城、田中城が孤立してあるのみでした。

 この木原の地には、畷戦の6年後の天正六年(1578)、武田方高天神城の武将、笹田(篠田)源吾が偵察に出てこの地を通過する際、熊野権現社の神主親子はじめ当地の人々の手によって素性がバレ、捕縛されて討ち取られたそうです。当にこの地は「徳川」の息がかかっている場所でした。

 

 偵察隊として高天神城より出でて東海道を浜松方面に笹田(篠田)源吾一行だったのでしょう、ここでも武田方武将の不運がありました。

やはり天正六年の桜が池、渥美源五郎勝吉、首切り坂を思い出します。

 

 家康からは例に漏らさずお褒めの言葉を貰って、おそらくは感状や神社所領安堵の朱印なども発行されていたかもしれません。

家康は1600年の上洛時、この神社に立ち寄って戦勝祈願までするほどでしたから、おそらく当時の件を鮮烈に覚えていたに違いありません。

 

 たまたまというか、平たく言えばどこでも同じなのですがこの地の人々は特別に「色々災難が続いた」と感じたのか、その災禍を「笹田源吾の崇り」と畏れて彼と当地戦乱で亡くなった者たちの魂を鎮めるという趣旨で石仏を設置したといいます。

現場に行けば将に水害に難渋しそうな場所であることが判りますので、こういった言い伝えはやはり妄想から始まったものでしょう。

 

 神社近隣の長命寺(場所はここ)にも「笹田源吾供養塔」が建っています。

この石塔は古い時代にパーツ合わせされていることが推測されます。