「憤怒」には復讐か仕置か沈黙か

瞋恚(昨日)や憤怒の念について、そういう状態に追い詰められたら人間、何らかの対応をするのが常ですね。

まず想い起こすことが「復讐」です。

 

 「目には目を」というイスラム世界のやり方を取るのか、キリスト世界でいう殴られた頬と逆の頬を相手に差出すのか、宗教的に言って何が正解かと言えば・・・、真っ先にそういう場合、親鸞さんの御師匠さんの法然(源空)さんのお話を想い起こします。

 

 美作国(岡山)の押領使、漆間時国(うるまときくに)の子、武士の家に生れた勢至丸(法然さん)はその名「勢至菩薩」の通り幼き頃より賢くさらに弓の達人でもあったといわれていました。いわゆる文武ともに長けた子供だったわけです。

 

 ところが明石源内武者貞明という者から夜討ち急襲を掛けられて父は瀕死、その際、「仇討の禁止」を遺言して亡くなります。

 「仇を打てば譬え復讐が成功したとしても今度は相手の子供や一族から命を狙われることになる。それはどうどう巡りの命の奪い合いに陥ることだ」と諭されて母方縁者の寺に入ります。

 

 そちらから学問一本で比叡のお山(大学)に上がるわけです。

そのようなエピソードが真宗門徒世界に延々と語り継がれていることから「怒り」の対応については、イスラムでもキリストでも無い、「沈黙して次のステップを歩む」というのが正しい対応方法であると示唆しているのだと思います。

 

 現代においては相手を殺傷するまでの復讐は「法」の理念から逸脱しますので論外ですが、法然さんの父、漆間時国の遺言とその理由は説得力がありますね。

 

ところが戦国時代、父親を討たれて復讐しない者は「腰抜け」と後ろ指を指され家臣からはアホ呼ばわりされて、家中混乱を導いた挙句、駿河名家「滅亡」の途を歩んだ今川氏真という武将がいました。

 ただ彼は当時より無能呼ばわりされ続けていますが、それは武門に限ってそのセンスが無かっただけであり、文化芸能和歌にかけてはかなりの才能があったと云われていますね。

氏真に法然さんのように家を捨てるという策を選択することは無理であったでしょうし、それは周囲が許さなかったでしょう・・・。

 

 さて、戦国時代に於いて各家の法度、要は殿さまの恣意的な判断主体の「きまりごと」というかいわゆる「私法」がありますが、それに抵触する謀反・反逆・造反から破廉恥な罪に対する統治者の怒りにはお仕置きという処断が待っています。

 

 本来の「仕置」とは所領内における司法行政全般の「統治」を指しますが、江戸期になって「仕置」を懲罰の意味に使うようになりました。今でも大抵そういう意味ですね。

統治を乱す者への管理者の怒りは「罰を与える」ことで解消したものです。

 

 現代はお国が代わりにその手の「怒り」を代わって行使する「死刑」というシステムがありますが、その辺りのところも我が宗旨に反していること、以前記しました。

 

 画像は近江犬上郡甲良町の勝楽寺城麓にある仕置場。

処刑場ということですね。たくさんの石仏が並んでいます。

看板には「高築豊後守1368年頃」とありますがあの婆沙羅大名でお馴染み佐々木(京極)道誉(高氏)の配下でこの城の城代だった人でしょう。