「みなみな、迷惑申され候う」「甚だ迷惑」

「坊主衆等に対せられ、仰せられ候う 『坊主と云う者は、大罪人なり』と、仰せられ候う その時、みなみな、迷惑申され候う」は昨日のブログの通り「蓮如上人御一代記聞書」から。

手っ取り早くその蓮如さんの談をひもとけば今ならネット上で簡単にアクセスして調べることができますが、一昔前でしたら「真宗聖典」ですね。

それは、いうなればキリスト教でいう「聖書」と同じようなものと考えていただければ・・・。

 本山等で催された「修練」等の研修会では必需品になります。

私は、確か住職研修会への持参を忘れて、慌てて本山の売店で購入したことがあって、殆ど真っ新(さら)―まず開けることがない―のものを2册持っています。

 場所が場所だけに「忘れ物」厳禁という雰囲気の中でノー天気に「忘れました」という勇気が振るい起こせず、なけなしの小遣い(結構高い!!)を握りしめ、聖典を忘れてしまったという己への悔恨と悔し涙を飲んでまた、その事件「発覚」の前に事なきを得ようと売店に走ったものでした。

 ところが講義開始直後、担当者がに向かって「聖典を忘れました」という私の同類の出現。

私としては「はいはい、自分と同じバカが一人。さぁ、これは見物ぞ その様拝見」と「担当の対応はいかに」と顔をみれば・・・

私の期待していた「咎めの言葉」の一つも無く、「それでは事務所のものをお貸ししましょう」と、いたって優しすぎる言葉。

呆気にとられて口を開けてしまいましたが、「これが本山か」と改めて狭量な自分の発想を恥じたものです。

 

 さて、「迷惑」の使い方ですが、現在の使用方法とその意味、まったく違いますね。ちなみに私はこの「迷惑」という語彙は相手に誤解されない程度に使うのは結構好みですが・・。

誤解されるというのは現代において「迷惑」という言葉のニュアンスは、まず殆ど「忌み嫌うべき困りもの」であって相手の立場は自分と対等か、これから険悪の雰囲気になったとしてもかまわないという「見下した」者に対して、時として喧嘩腰になるような場合、そして「お願い」謙譲の「ご迷惑をおかけします・・・」的な意です。

 

 私のこの「迷惑」の使用方法はその謙譲語の他は、やはり蓮如さんの言葉に対しての坊さんたち一同の「迷惑」です。

それは自身の心中の「どうしていいかわからない」という状況と言えばいいのでしょうか、字そのものの意味(困ってしまう)だけであって相手を罵るような感じは毛頭ありません。

 むしろこの語は考証のしっかりした時代劇等での台詞でお気づきの方もいらっしゃると思いますが、目上の人に対して、下の者が発する言葉として目立ちます。

シチュエーションとしては家臣に対する身分不相応の配慮に対して家臣が殿さまに向かってその語を発しています。それが「甚だ迷惑!」です。現代のそれで聞けば「ハッ」とするような感覚になりましょうか。

 記憶では何かの大河ドラマで信長が家康に対して、ある戦の後詰を依頼したのに対して家康は「甚だ迷惑!」と言い放ち、戦闘の先陣に廻ったという場面でした。

時代が変わると言葉の意味まで微妙に変わってしまう例ですね。

 

 画像は真宗聖典と出典箇所。昨日今節初、本堂の火鉢に炭を入れました。陽当たりの良い外から比べて本堂内はより冷えました。