駿府城鬼門の城  愛宕山城

静岡市中心部とは思えないほどの竹藪と広葉雑木で覆われた、地元で「谷津山」と呼ばれる地に昨日の愛宕社があるわけですが、実はあの社殿のある場所が愛宕山城の本曲輪と云われています。

 

今川駿府館の鬼門(北東)にあたることは昨日記しました。

要は方角のことですが「陰陽道」では「艮=うしとら」と呼んで、「丑」と「寅」の間の方位は特に「守りを厚くする場所」「要所」として重要視されてきた武家の「真面目なおまじない」の歴史があります。

 

菊川内田氏館の北東方向にあった当大澤寺の前身、本樂寺も鬼門除けだと思いますが、城や館等、有力武家の屋敷=街区の中心からみて北東方向には寺が多いのはそのためです。

 

今でこそ、そこいらじゅうにお寺があるように感じますが、寺の建立は地元支配者の意向が常に働くもので、特に武家屋敷の外側、北東側から南西側に建立させることが多いように感じます。

 

かつて私の住んでいた小田原には「寺町」という地名が残っていますがやはりお城から大雑把に見て北東方向ではありますね。江戸城でいえば上野寛永寺、神田明神、本願寺、浅草寺。

南西方向に徳川家菩提寺増上寺。

京都だったら比叡山。

 

「鬼門」は読んで字の如く「鬼が入ってくる入口」。転じて現代では「都合の悪いことがおこること」を言いますがその反対側の方向、南西(裏鬼門)も鬼が抜ける方向として「縁起が悪い」とし忌み嫌われていたようです。

ちなみに当山、陰陽道も風水もアホらしいと完全無視。

気にも留めません。この手のものは真宗では雑念の部類ですね。何より「一心一向阿弥陀仏」。

 

われらの本山、京都真宗本廟(お東さん)の北東方向の築地塀の隅もおまじないみたいなことをやっていますね。

これは鬼門封じに角を削って凹ますことですが、バカバカしいことをしたものです。

まぁ大規模建築のならい、古き伝統と解釈してください。

 

さて、愛宕山城も古い城で、戦国時代築城の遺構を残しています。勿論この城の築城から管理は「今川ー武田ー徳川」の名があがりますが厳密に記せば「今川ー伊勢(北条早雲)ー今川ー武田ー徳川ー中村(秀吉時代)ー徳川」といったところでしょうか。もっとも安定期には不要な施設となりました(→駿府八幡山城)。

 

義忠亡き後、伊勢宗瑞は義忠の嫡子竜王丸(氏親)と義忠の正室北川殿(宗瑞の妹?姉?)のために東奔西走の戦働きをしていますので、当然にこの城を太田道灌等の東方からの侵攻を喰い止めるべく守護、整備したと思います。

また、駿甲相三国同盟破たん時には今川時代は武田除け、武田時代は北条除けの城として活用したことでしょう。

それぞれの時代時代で、また人により「対すべき鬼」が変わっていったのでした。

 

画像は雰囲気だけ。本曲輪下の三曲輪が広めの平坦地。

土塁堀切空堀等は画像で残してもただの竹藪にしかみえませんね。行って見なけりゃわからない。

 

 石燈籠一対は掲示板によると小堀流と。

延宝三・・・小堀和泉守藤原政延。