旧榛原町川崎と勝間田氏との関係

私は小田原で生まれ以来、途中相良に来たり何度か沖縄には出向きましたが主に活動していた場所が神奈川県から東京都内でしたので、南関東の地理的な感覚は体に染み込んでいて、まず道などに迷うことはありませんでした。

本当の故郷というべき当地ではしょっちゅう迷子になっていますので不思議なものです。

もっとも一面茶畑の牧之原台地などに上がれば、まして日でも暮れでもしたら余程の人で無い限り自身不明となるでしょうが。

 

 国道1号横浜戸塚方面から渋滞の名所、原宿交差点を過ぎると藤沢市内や江の島方面に行く道と藤沢バイパスと呼ばれる下り直線道路に分岐します。バイパスの方は危なっかしい年代の人たちなど夜間しばしば速度が大幅に超過して当局の御厄介になったりしている道ですね。

その道は新湘南バイパスに繋がってその後、西湘バイパス経由で小田原方面に向かうことができて私も毎度お世話になった道路です。まあ、昼間は混みすぎて敬遠しがちな道路ではありますが。

 

 さて上記、藤沢市内に向かう道、これは箱根駅伝が通過する方ですが、時宗の総本山、通称「遊行寺」があります(場所はここ)。

 正式名称は「藤澤山 無量光院 清浄光寺」。

御本尊は阿弥陀如来、経典は浄土三部経に六時礼讃そして称名「南無阿弥陀仏」一筋ですからわが真宗系とかなり似ています。

開祖は一遍上人で法然上人の浄土宗系の流れですので頷けます。

六時礼讃の通り、24時間を六つに分けて時間おきにお勤めをしたことから彼らの事を時衆と呼ぶようになり、その後宗門を「時宗」という名で統一したそうです。

 米原の番場、蓮華寺(ここここ)は北條仲時の逃げ込んだ寺でした。現在は浄土宗になっていますが、元は時宗でしたね。

 

鎌倉中期、親鸞聖人が六十代も半ば過ぎに生れたのが一遍さんでした。

遊行という修行兼布教活動の形は全国的に信者を増やし、鎌倉末期から室町にかけて、「南無阿弥陀仏」の称名と「極楽浄土」のイメージをわかり易く底辺の民衆レベルから武士クラスまで幅広く広げました。

 

 おそらく当時は我が本願寺系の親鸞聖人の教えよりも勢いはあったのではないかと思います。

当流では八代の蓮如さんが現われて爆発的な宗旨的ブレークとなったわけですが、これは大衆の「一向宗」というものの混同と同化、一遍上人一門の耕した~勿論親鸞聖人以降の本願寺の活動もありますが~「遊行」を通しての布教活動による「念仏」の大衆化が大きく影響していると思います。

 

実は一遍上人の没後、彼の意志は一旦廃れかけましたが弟子の他阿(他阿弥陀仏)がそれを継ぎ、「遊行上人二世」として本格的布教活動を行いました。

 その他阿が遠州の勝間田を訪れた際に相模の国「藤澤」の地と自然環境が似かよっているということから相模国内の地名(藤沢・戸塚・川崎・大磯等)を付けたと云われています。

勿論、他阿上人に帰依してその教えを歓迎した国人とは勝間田氏であったわけです。

 

 しかし現在の神奈川の藤沢と遠州川崎から仁田や中(なか)辺りの田んぼと茶畑の風光明媚な場所は似ても似つかないという感じです。中(なか)は榛南仏教会で昨年までお世話になった長興寺さんがある場所です。

画像①は仁田(「新田」からか)と中辺りから見た相良方面牧之原台地。②は勝間田小学校入口交差点付近。

③は昨年崩落して補修が完了した龍眼山城南側の崖。