仮称 「東西山砦」  市内絶景の一つ

既報の通り11月9日の報恩講の講師は小和田先生。

教如上人400回忌の記念法要とはいえ、どこの門徒のお寺の報恩講で「宗祖の御法話から離れた『おはなし』になるのだ!!」といった疑問というかお叱りの言葉は口には出ないにしろ「こんな寺もあるものか」とため息の一つも吐かれておられることと思いますが、恐縮です、「こんな寺です」と開き直らせてください。

楽しませてくださいよ、宗祖のご縁と思って・・・

 

 袋井市教育委員会の某氏とは当山「地震記」の貸し出しで色々と歴史雑学のご指南をいただいておりますが、「自治体教育委員会に寺院等が文化面の教化、講習の依頼をしてくることはよくあることだが、お寺主導でこの手の活動を行って、市の方(教育委員会)を巻き込むという話はあまり例を見ない」とまで。

褒められているのか、苦笑いされているのか、とにかくうまい具合に終了させたいものです。 

 

 さて、小和田先生の「おはなし」は勝間田城の勝間田氏について触れられると思います。

勝間田城のある牧之原市の勝田(こちらも「かつまた」と読みます)は釘ケ浦(「くぎがうら」当地駿河湾の別名)から勝間田川をさかのぼること、勝間田氏以降今川氏の手に落ちて岡部元信の所領となった切山の手前辺りまでかなり内陸に入ります(場所はここ)。

 地元では道場(どうじょう)と呼ばれる地名の背後の段丘は東西山。単独丘で西は「馬の背」と呼ばれる狭い道で滝堺城方面台地とつながり、東側北側は谷状となっています。勿論、駿河湾に開いた南面は勝間田川とその湊があってまさに天然の要害としての立地は申し分無い場所です。

地元の茶農家のお話では明治以降のお茶畑の開墾でこの地区に大きく手を入れてきたそうですが、夥しい石積み用の石が出て、50年程度前までは土塁石垣の跡の上に平坦な場所があって明らかに櫓等建造物があったことをも推測できたと。同様に東西山から東を見渡せば秋葉山に龍眼山(画像②)、西には滝堺、それぞれに何らかの勝間田系の防衛ラインとしての砦があったことが推測されます。

ちなみに「東西山砦」などという名称は私がつけたもので地元の歴史書にすら載っていない名称ですから悪しからず(「宮山城」が通称か)。

 

 こちら東西山、何しろ絶景。ガスの無い晴れた日には駿河湾の向こうに伊豆半島、東には富士山、北を望めば南アルプス(③)が見渡せます。