銀金の大元の寺 義政の墓

書生さんたちが修学旅行でお世話になる鹿苑寺金閣も慈照寺銀閣もあまりにも著名すぎ、齢を重ねて私など最近は京都方面に行ってもこれらのお寺を目標にすることは無くなりました。

京都は私にとって絶妙な場所で、これは私に限らずそう思われている方々もおられるでしょうが、あるだけの時間をここぞと決めて見て回ることが多いのですが、何分「銀も金も」参道を並ばなくてはならないほどの人の多さかげんに嫌気がさしてしまうのです。

 

しかし、これら二つの足利幕府三代義満の北山文化、八代義政の東山文化を代表する超有名なお寺ですが本寺である相国寺(相国寺派)の末寺でした。

塔頭(たっちゅう)寺院とか境外塔頭とも呼ばれますね。

二寺院とも武家が好む禅宗風の室町文化を代表するお寺です。相国寺と鹿苑寺は義満が手掛け、それを手本に義政が慈照寺を建てるために厭世的逃避観からか庶民に段銭や夫役(労役)を課して莫大な財を投入したことは、世の大顰蹙を買ってあの応仁の乱の遠因となったわけですが、義政は偉大な先達の建立したこの相国寺にも頻繁に参っていたそうですね。

 

こちらの寺には足利義政の宝篋印塔が。

その墓石の左右に昨日、一昨日で記させていただいた藤原定家と伊藤若冲の墓が仲良く並んでいるのです。

後世になって整列されたのだとは思いますが、わかり易くてまとめてお参りしやすいという利点もありますが何となく味気ないような気が・・・