「三川の内 あん城と云ふ城」 安祥城

標記、三河安城の安祥城について「信長公記」の記述です。

この城は本丸と平地の高低差はそう感じられませんが、本丸跡に建てられたお寺・二の丸跡の神社・そして前2箇所より一段低いエリアにある三の丸跡の博物館とが一体化した安祥城公園としてその区画が整備されています。

高さから比較すれば駿州田中城と遠州久能城の中間くらいの大きさの「丘」に建てられた城館で勿論天守閣風構造物を持たない所謂「平山城」の類。

周囲は平地に囲まれ、現在も一部田園風景も見て取れ、当時の矢作川とその支流を堀として有効利用した湿地帯を想像できる場所です(場所はここ)。

 こちらの城は周辺の岡崎城、名古屋城、浜松城と比して案外地味なイメージですが桶狭間(1570年)以前の徳川・織田・今川という戦国の雄たる三大名が熾烈な戦いを繰り広げた場所でもあります。

特に徳川家の場合、三河のこの地は岡崎を主城とする以前の三河松平家(三代目松平信光より入城)や後世徳川家(松平家九代目にあたるのが家康)を支えた三河武士団発祥の地といっても過言では無いでしょう。

 本丸と二の丸は比高のある段丘でその間が堀状の底部がありますが、それぞれの段丘斜面を削って「切岸」としてその土を掻き揚げ(→一色城)て曲輪の土塁にした様に思えます。

本丸・二の丸の間はもし堀があったとしたら木橋等でつなげられていたのかも知れません。

またその堀らしき底部を進めば現在の歴史博物館のある三の丸へ辿ります。

本丸跡の大乗寺。山門が見事です。⑤が本丸の切岸。⑩が博物館全体図で①とは正反対側。