一休さんが悩み悟った地も堅田 祥瑞寺

臨済宗の一休さんについてはこれまで数回( )にわたって記させていただいております。

三井寺から源兵衛親子の働きで取り返した親鸞聖人祖像が一休さん以前に見てうたったものが

 

「襟巻のあたたかそうな黒坊主 こやつが法は天下一なり」

であったことは相違ないところでしょう。

 

近江堅田の本福寺、光徳寺は蓮如さんが多く関わったお寺ですがこの一画に隣接して祥瑞寺というお寺があります(場所はここ)。こちらのお寺が一休さんがいらしたお寺です。

これだけお隣さんだったら顔見知りどころか昵懇になったとしても不思議は無いところ。

しかし時間軸で見れば一休さんが心身疲れ果ててこの寺にやってきた頃はちょうど蓮如さんが誕生したあたりです。長生きした一休さんですが、この堅田には相当期間いらしたのでしょう。

 若き一休さんはここの琵琶湖畔に入水自殺を試みたともいわれますし、また湖畔にて烏の声を聞いて悟りを得たというエピソードもあります。

 お二人の仲に関しては過去の一休さんについてのブログを参考にしていただければと思いますが、そもそもこの地域は(全国的にいってもその傾向にあります)、比叡山の領地でしたので天台系(場所によっては真言系)の寺が室町期に入ってから鎌倉期に勃興した念仏や禅などの宗旨に転向していったという歴史があります。

要は国立系の貴族を対象にした「大学」の分校たちが、より庶民的で多くの階層を対象とした私立の学校に変わっていったという感じでしょうか。仏教の変革期ですね。

 

 ルイス・フロイスが「甚だ富裕なる堅田」とまでに評した「湖族堅田衆」は殿原衆と全人衆(→ブログ)という職業によるグループ分けによって健全な自治都市を形成して繁栄したわけですが、このグループは宗教的にもその基盤を殿原衆→臨済宗 全人衆→真宗門徒と別れていました。

殿原衆は国人・地侍層ですので、鎌倉期に武士階層に好まれた宗旨でしたから当然でしょう。

というわけで当地寺院の二つの顔であった一休さん(臨済)と蓮如さん(真宗)のとおり殿原衆と全人衆もイイ感じでまとまっていたのでしょう。

 

繁栄の場を支配下に置きたいという願望は戦国期には当然のことで周辺実力者はこの堅田を目指しました。

延暦寺から佐々木・六角そして浅井・朝倉、仕舞は信長です。

その頃は堅田大責の殿原衆の大敗以降、全人衆(本願寺)が力を付けてその関係がアンバランスになっていました。

信長は力攻めに加えて、懐柔・内応・裏切りを誘発すべく殿原衆調略に力を注ぎ内部分裂を促し、結局は堅田も信長の手中に収まります。

 

画像は祥瑞寺と境内。

芭蕉の碑 「朝茶飲む 僧静かなり 菊の花」