右翼に気を付けろ これ常套 桶狭間

雑兵物語の「弓足軽 小頭」の段に隊列について触れている部分があります。

 

「鉄砲隊と一緒に並んで、鉄砲射ち二人のあいだに、弓射ちが一人づつ立って、鉄砲射ちが一発射って次の弾薬を詰替えているあいだに、弓を射なされい。弓も射られないくらい、敵との距離が近寄ったら、弓隊は左右に分かれてそこから狙い射ちで射なされい。左右へ開くことができない時は、せめて左側へ開いて、敵の右側から射なされればよい、人は右から攻められると防ぎにくいもんだ」

 

 すべての隊列のすべての兵に鉄砲が行き渡る前の戦において、上記のように弓隊、あるいは槍隊・騎馬隊と鉄砲部隊が混成によって最前列に立ったことは察しがつきますが、「敵の右翼を狙う」というアドバイスには、なるほど合点がいきますね。

 一昔前のサッカーで自軍に右利きばかりが揃って、相手左サイドの怒涛の攻撃に失点しまくっていたことを思い出しました。槍でも弓でも鉄砲でも右利きぱかりが進軍しているところを右翼から「横矢・横槍」を入れられたらば簡単に崩されたでしょうね。

 

こちらの場所も古来からの幹道で「近崎道」と「三河道」と呼ばれた街道の合流点で、鳴海方面に通ずる要所であったと言われています。地名としては「田楽坪」とも。

 

 桶狭間での今川義元休息中の本陣も隊列の右翼を信長が狙ったものと考えられています。

戦勝気分でまったりとしながら余裕の気分で昼食をとって急の土砂降り降雨があがってやれやれというタイミングに突然の奇襲攻撃、大いなる油断は歴史上特筆すべきものがありますが、今でも義元討死候補地が分かれるなど広範囲に及ぶ桶狭間の地、ピンポイントで本陣と大将を相手に悟られる前に発見するという仕事には驚かされるばかりです。

 きっとだれが見ても本陣であるとわかる様子だったのかも知れませんが信長配下の伝令システムたるやどんなものだったかも興味があるところですね。

 

 画像は昨日の国道1号近くの推定地とは違う場所。

桶狭間小学校の近くになります(場所はここ)。

こちらにも義元が馬を繋いだといわれる「馬繋ぎのねずの木」や墓標もあります。綺麗に整備されたこじんまりとした公園になっています。

  圧巻なのは今川義元の銅像ですね。信長のものと仲良く並んでいますが、そもそも義元といえば駿府ですよね。

駿府にこのようなモニュメントが無いところががおかしなところで、駿府盟主の討たれた場所ごときに先を越されるなど静岡市民の無頓着さ、これも恐れ入ります。

 

 最後の画像は「釡ケ谷」。

近くの短大の駐車場となっていますが、信長軍はこちらで雷雨をやり過ごし、背後の山を駆けあがって今川軍右翼を一気に突いたといいます。