鷹揚 と おっとり刀  雑兵物語

昨日は「おほやう」に「大様」の字をあてる意を記させていただきましたが「大様」は「大概」という意以外に、「どーんと構えて、みみっちいことに拘らないという大らかさ」を意味することもあります。

往々にしてこの「大様」、まるで「王様」のように気品がある言葉ですが、むしろ最近では「鷹揚」という語の方が「大様」と読みが同じで、より雰囲気的に言って「おおらかでおっとり、こだわりを持たない心の広さ」を表しているよう。こちらの方がより世間で使用される頻度が高いものがあるなぁ・・・などと感じています。

 

 「鷹揚」という語にはなるほど、「上品さ」的感覚がありますね。大名等選ばれし者たちの高貴でお金のかかるお遊び(鷹狩)必需のペット、ステータスシンボルともいえる「鷹」が大空を悠々と舞い上がり、しかも風に乗って恰も静止するように陸上を見下ろす姿(鳥瞰)は地上にいる翼の無い人間たちは昔から一種憧れにも似た神々しい「雄大さ」を感じたことでしょう。

 

 「そうありたい」という願望は実際「そうではない」から自然に起こるものですが、この「鷹揚さ」という語彙はわが座右の銘にしたいなどという殆ど無理矢理でおこがましく「図々しい」とは思いますが、やはり仏教的達観には大望としてそうあるべきでしょうね。

雑念にとらわれないというのが仏教者としての主眼ですので。

しかし、真宗では「雑念あっても別にいいよ」いや「あるからこそ」という宗旨(悪人正機)ですね。

 

  とりあえず、「何事にも鷹揚に構える」などというカッコ良さは目標にしたいところです。やっぱり「ちっちぇえなぁ」と冗談でも友人や家族に罵られるのは気分が良くありません。そうつまらぬことを考えることがまた「みみっちい」のですがね・・・。

 

さて、今でも時々耳にする「おっとり刀」。

幼稚園のお母さんが「うちの子はおっとり刀で・・・」と我が子ののんびりとした鷹揚さ、ゆとり感を表現しているのだと思いますがその意は鷹揚とはまったく意味が違うのでした。

 

 「雑兵物語」で目にする「弾丸ごめ棒はひっこ抜いて皮袋に戻し」「鉄砲は腰の上帯にひっぱさんで・・・」「からの鉄砲ではなく・・必ず弾薬をつっこんでかつぎ・・・」「なまくら刀はひんまがって」の如く口語的な強い言い回しで「おっとる」を漢字で記せば「押っ取る」です。

 

 「おっぱじめる」「おっちぬ」「おったまげる」「おっつける」「おっかぶせ」と同様、強調の「おっ」でしょう。

意味は殆ど鷹揚とは逆、「押っ取り刀」とは「大慌てで取るものも取らず刀をむんずと握って駆け出すといった様」を言います。

 

画像は「雑兵物語(昭和55 講談社)」の絵解。

負傷した時の心得が記してあります。だいたいこの絵の如くシチュエーション、内容も含め現代人にはあり得ない絵図です。

 

ちなみに負傷したら

★風のあたらぬところであぐらをかき眠らぬようにする

★柿色染めの布は血を吸い取る

★湯や水を飲まないようにし、おかゆよりは柔らかく炊いた飯 

 を喰う

★矢は手で抜かない 釘抜きか毛たて箸で抜く

★傷口が痛むときは自分の小便を飲め

★小便をあたためて傷口を洗ってもよい

★出血が身体の中にたまらないためには葦毛馬の血を飲むと良

 い 葦毛馬の糞を水で煮て飲めば血は下る

★川を渡るとき水を飲んだら石灰を水で固めて尻の穴へ入れておけば水が下る

 

すべて現代医学の評価をいただきたいものです。

絵は眼球を弓で射抜かれているようですが、昔の人は怪我した時もかなり鷹揚に構えていたようです。

 

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (水曜日, 11 9月 2013 08:29)

    今じゃ 「おほよう」は嫌われます。
    大概ではだめなのです。
    憧れる反面詳細にチェックが必要です。
    訴訟社会が変えたのでしょうか。
    嫌な世の中とでも言えます。
    鷹揚に構えていたいものです。
    せめて心の奥底で。

  • #2

    今井 (木曜日, 12 9月 2013 07:39)

    ありがとうございます。
    時間におわれて日々忙殺されているとしても
    「高い場所」から地上にいる小さな自分を含めて
    「流れ」を見下ろす気持ちが必要でしょうね。