3人の秀勝のうち、実子の秀勝

文禄二年(1593)年に秀頼が生まれる前に秀吉には実子養子を含めて同名の3人の子供がいました。

 

3人の秀勝

①石松丸秀勝 秀吉長男 実子 天正四(1576)6

②於次秀勝 織田信長四男 養子 天正十三(1586)18

③小吉秀勝 秀次弟 養子 文禄元(1592)23

 

3人とも「秀勝」。元服前に一人、元服後であっても2人の子供が亡くなるという当時の戦闘以外での生存率の低さにも驚きますが、何よりも秀吉の心痛というものはただならぬものがあったでしょう。このような状況の中、秀頼という実子が生まれた(秀頼非実子説も巷間取沙汰されますが)という秀吉の踊躍歓喜は理解できます。

 

 後世紛らわしいので幼名を頭に付けて区別しています。

石松丸は秀吉の長浜時代に生れた長男といわれています。

その死を悼んでその後の養子たちに「秀勝」の名をつけたのでしょう。 

 

小吉秀勝は兄秀次よりも3年ほど前に病没していますが、秀次事件もあってか兄と同様、傲慢無能振りの伝承がされています。これも秀吉が流した自らの振る舞いの「正当性」を裏付けさせようとする風説だと思います。

 

画像は石松丸秀勝と長浜の妙法寺(場所はここ)。

元は小谷城下にあった日蓮宗のお寺です。天正四年(1576)10月14日、秀吉の長子、羽柴秀勝が亡くなってこの寺に葬られたといわれます。

こちらの①の肖像画は昭和27年に焼失してしまったとのこと。

埋葬空間であった塚墓⑧は旧境内地の「鞘堂」という場所にあった墓石⑦(日蓮宗系の「題目式笠塔婆」)の約2.5mの場所から発掘されたそうで、平成14年に現在の本堂前に移設されました。

 

この子の死が秀吉暴走と豊家滅亡への歴史の始まりといっても過言ではないでしょう。

お顔を拝見すれば可愛らしくまた凛々しくて、6歳での夭折に秀吉の落胆、悲しみは相当のものと推測できます。

400年来その肖像画は寺に伝わっていましたが昭和27年の火災によって焼失したということを考えると、その幼き子に今一度「死」=「うしなはれる」を与えてしまったような気がして、また気の毒に感じてしまいます。

勿論秀吉ではなく、石松丸に対してです。