極楽観と楽観と悲観 楽観バイアス

一反の生地を織り上げる、経糸(たていと)に緯糸(よこいと)を織り込んでいく作業を「人生」に喩えて言う場合がありますが、その経糸=指針・筋道が「経典」とか「お経」の語源になっているのは周知の事。

流行りのGPSも経度・緯度がハッキリすることにより現在位置がピンポイントでわかります。

 経糸(たていと)である筋道や目標(たとえば仏の本願)が頂けないところに各自の努力や計らいである緯糸(よこいと)が織り込めるわけも無く、経糸を省略していれば緯糸ばかりが目立った強度不足で「食い違い」模様の人生にもなりかねません。

「邪―よこしま」という字の如くですね。

 

 さて一番短い真宗経典(お経)である「仏説阿弥陀経」(小経)のサブタイトルが「極楽浄土の荘厳」です。

よってその経典の中で釈迦が舎利弗という弟子に淡々とその浄土の荘厳について語りかけている様子を釈迦が「直接私に」向かって諭されているように感じて受け取り、浄土に行けるよう称名して発願するのが「極楽観」。

幸ある場所の原風景を観想するものです。

 

「楽観と悲観」は言い換えれば「極楽と地獄」ではありますがこの思考に関しては人間それぞれが感じる領域で個々の性格や状況によって変わってきます。

心理学の世界ですね。

近ごろはポジティブ思考とかネガティブ思考という2つの言葉に断じられ、大抵がその「ポジティブ(前向き)思考でなくてはあかん」風の言葉が持て囃されるようになっています。

もっとも年がら年中悲観的な考え方でいられるわけも無くそのマイナス思考というものはいかにも病的で不健全すぎますし、まず色々と物事を進めることができなくなってしまいます。

また積極的に動くことはそもそも本来の人間の正当な思考力かもしれません。

 そして世の中の世情や社会の不具合から個人的な不成就不満足感までの殆どが「私自身」にあってその持つべき感覚を「+思考」に変えていけば「人生が変わるキャンペーン」がずっと繰り広げられてきたのが昨今だったと思います。

 

 生地は縦糸と緯糸以外のものは入ってきませんが物事の思考に「斜め」という心理学的な感覚があります。「偏重」とかと一言でも言いますが各個人の持つ思想や思い込みが判断材料となってしまい、結果しばしば当人の考えることとは逆に出て、より悲劇的な状況に陥ることがあります。

特に人間の本来持った「楽観的」な本質もあいまって物事に対して極めて楽観が強調された感覚に陥らせる要因として「楽観バイアス」があります。

 

 要するに戦国時代、封建時代、戦争の世紀の歴史は頭の片隅にはあるものの、すべての事に楽観的であることが奨励されて育てられた私たちには物事への悲観論への嘲笑的他者の目や雰囲気もあって、ついついその「楽観の偏り」の心理が働いてしまうようです。

 

 それは先日の当山手ぬぐいの「火用心」にても記した通り、極論を言えば「私はミスを犯さない」「私は大丈夫」的思考です。

他家、他者の火事・交通事故、ハシゴ・木からの落下等の事故、躓いての骨折、疾病まで自分とは関係が無い、違う世界のことと錯覚したり、自分に降りかかった事案も「まさか、これ以上は悪くはならないだろう」と勝手に都合のいい解釈をしてしまう傾向を言い、誰でもが深層心理その様に考えてしまう少しばかり厄介な感覚です。

 

 相良でいえば、大きな地震は来ないだろう、津波は20mではなく来たとしても数メートルだろう、原発は壊れないだろうと勝手に何でもイイ方向に考えることですね。

その考えは「旗振り役」の「安全宣言」というアナウンスにも後押しされてますますその思考回路は増殖している様です。

「悲しい」「悲劇だ」という悲観論ばかりでは次のステップには進められませんが、「最悪の事」を思考に入れて(用意して)行動する必要があります。

 

画像は今度は菊川のガスト(どちらでも同じですが)、ハマッテいるあんみつとドリンクバーのキャロットフルーツジュース。

梯子からはいつ落ちるかをびくびくしていますが、これらを食べまくっていて糖尿病、高血圧、心疾患への罹患に対して「私は大丈夫」と思っているのが楽観バイアス。

「おめでたい」、こういう言い方もありますね。

もはやめでたくもない誕生日を迎えての一言でした。