「火用心」は「いろはのい」今年のてぬぐい

本日2013年7/13は当山の盂蘭盆会本法要。10時と18時の2回ですが例年殆どの方々は午前の部にお参りくださいます。

「8月の法要」の期日は元のカレンダー通り、8月15日木曜日14時からとり行うことになりました。二転三転してしまい申し訳ございません。

当日は14時45分頃より鮫島庸一先生による講演会があります(→Home)。

 

 盂蘭盆会法要前日の花ガラは3袋。すべてキレイに処理して受け入れ態勢はまずまずです。7時30分から先方様宅より動き出してお昼をいただいたのが1500すぎ。慌ただしかったですがギリギリ16時過ぎに処理場に滑り込みました。

 甲州恵林寺の臨済僧、快川紹喜の(かいせんじょうき)の

「心頭滅却 も亦涼し」などという言葉も過って「連日好天に恵まれ」などと記せばさすがに嫌味でしょう。

 もっとも「心頭滅却」は出来る人だけすればいいこと。結果快川紹喜は「焼死」ですから、命がけの達観であって、我々煩悩を抱えまくった素人の短慮では及ばないところです。 

 

 当地最近のお墓参りは18時以降が多いですね。以前は夕方の墓参に関しては皆さん敬遠していたのですが昨今の状況がそうさせているのでしょう。蚊も減っているのはうれしいことです。きっと花立の水が熱すぎてぼうふら時代が過ごせないのだと思います。

 年配者は外に出ない傾向がますます強くなっていますが、相良に限ってかコレ本当の所ですが、外に出ると結構風が吹いて案外涼しいのですよ。

我家の御老体二名もなぜにあの暑い部屋の中に生息するのか理解に苦しんでいるところです。ずっと大音量でテレビをつけっ放しにして周囲に暑苦しさを振りまいています。

 私なら海に本の1冊とデッキチェアーを持ち出してずっと昼寝しているでしょうに、とても時間の使い方が勿体無く感じます。日本国内、旅行をしまくるのも一手ですよね。何故家に籠るのだろう。齢がそうさせるのでしょうか。あの意地の張り具合は両親特有のものでしょう。私は違う選択肢を模索したいです。

 

さて盂蘭盆会法要に檀家さんにお渡ししている「御仏供セット」。その中の「今年の手拭い」の文字はたった3文字です。

「人間の驕り」について注意喚起できればと思い記しました。何よりも注意しなくてはならないのは自分です。

 武田の旗印、「風林火山」の「」。その語は「侵略」のイメージです。「侵略、切り取り」の姿勢から逆に滅亡を辿るのは歴史上証明されていること。上記恵林寺炎上が象徴する武田家の滅亡が皮肉です。

 

 そして何より傲慢な人間たちは「火」の始末以外の事々にも色々とミスを誘発し大失態を惹起します。

何事にも我が身の愚かしさの基本「いろはのい」、大元となるのが「我が心の」へのコントロールでしょう。

以下恒例「手拭能書き」を転記いたします。

 

 

 

 

「火 用 心」 手ぬぐいについて

 

あの3.11以来私たちの頭の中は将来その身にかかるであろう、地震と津波と原発という3つの災いに集中しています。

先達からの古文書(大澤寺「地震記」等)から伝わることは後世の子、孫たちに向かって「忘れるな」というメッセージであることは間違いありません。

 

 戦国時代の武将本多作左衛門(鬼作左)が戦地から奥さんに送った日本一短い手紙

 

「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな馬肥やせ」

 

は有名ですが、何よりもまずは

「火の用心」が肝心であることを訴えています。

そのあとに息子と軍備に配慮せよと。

 

 また、現代よりずっと古い時代に生きていた人たちは、地震は必ず来るから其の時に心を向けておきなさいと仰っているのですが、古来より人々を苦しませてきたことといえば「火事」だったと思います。

 蛤御門の変の如く、人為的に火を放たれるということは論外ですが、往々にして大火の原因は失火でした。

 そして田沼時代から数度に渡って相良城下が灰燼に帰したという件は有名です。

大火延焼に懲りて田沼意次は城下に瓦屋根を推奨したほどです。

江戸、京都を襲った大火も数知れず、火災によって失った人のいのちも財もまた復旧に要した資材と時間は甚大であったでしょう。

 

 消防のシステムが整った現代であってもその災難はいたるところに潜んでいて人間のどうしようもない性である「うっかり」から大きな、そして時として致命的な被災となってしまうことを多々目にしています。
 たくさんの重荷があって、やるべきことはたくさんあるのですが、ここだけはやはりいつも細心の注意を払うべきで捨ててはおけない事、それが「火の用心」だったのです。

 当山大澤寺も450年で3回の焼失があったと聞いています。

歴史上寺院や城郭の火災という事案は枚挙にいとまがありません。

ここにきて私がこの三文字をお渡しする意味は、毎日のように火を扱っていて時として慢心してしまうという直接火に対する畏怖もありますが、この誰もが「当たり前」と思っていることに今一度「人というものの原点を思い出してみる」という提案です。

何故なら失火にかかわらず「人は必ずミスを犯す」ものだからです。

 

 私は「自分を信じて」という一見綺麗な言葉より「自分を信じるな」という言葉の方が好きですね。

「わかっちゃいるけどやめられない」(植木等- 真宗寺院の息子)の通りの姿ですから。まぁ使われている状況が違いますが・・・

 何より地震・津波被害には火災がついて回っていました。これは紛れもない事実です。

発火延焼するメカニズムは他によりますが、とにかくも我々一人一人が「防災」の原点に立って「火」の脅威について再認識し、より注意深く取り扱うよう心掛けたいものです。

 

「火用心」は二回の大火で焼けた京都の町屋杉本家に伝わる「防災」意識の伝承の言葉です。

この三文字が彫られた版から毎年末に新しく刷り直し火を扱う場に掲示させ、新年を迎えたそうです。

新しく「意識を刷り興す」ことが必要だったのですね。

 今回の盂蘭盆会のご縁にこの三文字をご紹介したいと思い手ぬぐいに記させていただきました。

また原稿は牧之原市相良の本多菁翠~ほんだせいすい~さんにお願いしました。