根古屋に陣場に海賊倉と地獄谷

「根古屋」というお城に付随する地名が今も各所に残っているという件は野田城根古屋村等で記しましたが、駿河久能城となると現在の山下参道口(昨日のブログ)は勿論城のあった久能山そのものの地番が「駿河区根小屋」ですので相当広範囲に渡って残る名称です。

 

 天文二十三年(1554)今川義元北条氏康武田信玄が今川家の軍師、雪斎の画策によって富士の善徳寺に集結し、和平会議を行った「善徳寺会盟」。違和感は残りますが(頭首三者らの集まりが本当にあったとは信じられません)、駿河・甲斐・相模の三国同盟は天文年間に今川義元の娘「嶺松院」→ 武田義信に、武田信玄の娘「梅院」→北条氏政に、北条氏康の娘「早川殿」→今川氏真へと三家あいまみえての縁組が成立して一定期間はそれなりに機能していました。

 しかしこの三国同盟の安定は永らく続かず、再び分裂して結果的に三家とも滅亡の途を辿るというのも歴史の皮肉です。

三国で団結し親戚同士を続けていればまた歴史というものは変わっていたことでしょう。

 

 その三国同盟が瓦解するきっかけはやはり桶狭間以来の徳川家康の台頭であることは言うまでもないところです。

家康は信玄と「駿河・遠州仲良く半分ずつ」という約束まで取り付けて遠州切り取りにかかります。

永禄十一年(1568)には信玄による駿河侵攻が始まって氏真は駿河を去ることになりました。

 

 今川一統を一掃した信玄が心底拘ったモノは「海」ですね。

駿府を焼き払ってからまっ先にこちら久能山に目をつけました。後に家康に「駿府城の本丸」と言わしめたこの山に、これまであったお寺を引越させて城を築きました(お寺は現在の鉄舟寺)。

嘘か真か「勘介井戸」なる井戸があるのもかつての武田の遺構の名残であることは以前お知らせした通り。

ちなみに私は「嘘だろ!」に1票ですが。

この城の城代は諏訪原城の畑の中に何故かお墓が建っている今福友清―長閑斎(浄閑)でした。

難攻不落を想像するこの城も圧倒的な兵力数の差で落城しています。武田勢の殆どがこの山の東側、清水方向より逃亡したことと思います。

 

 よって久能山城が本格的城塞として機能したのは武田のお城になってから。当然に水軍基地設営の期待があったでしょう。

いつの時代からそう呼ばれたのか不詳ですが根古屋には各所「別名」が残っています。

山下の参道を登りかけて即左の方角(西)へ約100m、突き当たった辺りが「陣場」。 

150号線から久能入口を入って1つ目を左に入り駐在所を過ぎて橋を渡ったその川沿いを登って谷あいを進めばそこが「海賊倉」。

日本平とつなぐロープウェイの真下辺りが「地獄谷」です(場所はここ)。

 

 陣場の呼名は今川時代の可能性もありますが、徳川方の久能山城、攻城戦の陣をそう呼んだのだろうと思います。

地獄谷はこの城の裏側(日本平方向の谷)の二の丸を直接攻めようとチャレンジしようとした徳川方の「地獄」の場をそう呼んだと思います。あの高低差を攻めるのは辛いですね。

現在の参道である追手道を真正面から攻めるよりはまだマシだったのかも知れませんが・・・。

「海賊倉」は駿河湾に注ぐ河川の谷あいの場所をそう呼んでいたそうですが、今川時代か武田時代の水軍基地を連想できる地名ですね。

付け加えてこの地の特筆すべき点を私なりの想像で記させていただけば、参道山下の根古屋の居住民に「川島」姓が特に多く、一説によれば海賊倉につながる西の川と、東側の川に囲まれたというか、区切られた「島」の様な地所であり、この島という形状と根小屋という特殊な立地も相まって独特な立場にあったといいます。

特に水軍=海賊に特化したグループであったような気がしますね。

旧くから一昔前までは婚姻に関してはこちらの部落内での行き来が当たり前だった時代があったそうです。

嫁入りは一族、たとえ離縁して出戻ってもまた一族に嫁ぐというのがしきたりだったと聞きました。

 

画像①は150号線から見た久能山②は縄張り図③は根小屋地名の入った地元消防団と久能山。④が城内南の勘介井戸。⑤は「陣場」から見上げた久能山。イチゴのハウスの向こうに梅林が見えます。⑥が駐在所脇の川を上って駿河湾を振り返った図。⑦が「海賊倉」辺り?

⑧は地獄谷より海側の断崖絶壁です。地獄谷の様子はロープウェイからご覧いただければよくわかります。

命令系の恐ろしさですがあんな高低差、下から登攀するなど自殺行為です。

人の命が重みが虫けらと同等の時代でした。命令系の収斂したシステムによって戦争が為されますので一旦戦争に参加すればいくら無能でアホの上官であっても命令があれば「あの崖を登らなくてはならない」というところまで私はつい想像してしまいます。

石や矢、鉄砲が雨の様に降ってくることも・・・そして飛躍しますが昭和の戦時下、太平洋各地で死んでいった日本の兵士たちも殆どその命令系の中にあったことを忘れてはならないですね。「犬死を玉砕」の如く死に対して「価値」あるものとこじつけた時代への反省の時期がまた迫っています。

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (土曜日, 20 7月 2013 08:54)

    例え犬死でも現在の日本のために亡くなった方々です。
    日本のためを思って死んだ方もいるし、
    家族のためを思っての人もいるでしょう。
    すべての死が現在の源です。
    良くも悪くも。
    昨日は平田寺の檀家の方の通夜でした。
    住職の読経、説話を聞いて
    うまいなーと思いました。
    いろいろなめぐり合わせで大変でしょうが
    立派になったなーとしみじみ思いました。
    釣徳寺の龍典くんも住職になったとのこと。
    音楽と住職と上手にやってもらいたいです。
    それだけこちらが年を取ったということですね。

  • #2

    今井一光 (土曜日, 20 7月 2013 14:24)

    ありがとうございます。
    仰る通りです。それぞれの御先祖・先達・善知識のご縁によって今私たちが存在しています。
    おかげさまであったと思う次第です。
    それだけに人と人が殺しあう戦争がなければ尚よかったと悔やまれますね。
    本来ある人間の殺し合いの本能はやはり本来持ち合わせた「抑える心」によって制御できると思います。
    本来日本人はそのコントロールは得意な分野ですので仏教的思考に立って人と人が説法しあうことこそが一番良い解決方法を導く姿であり暴力では何の解決にもならないことを皆でもって認識して行動する必要がありますね。
    忘れがちなところでもありました。
     そういう意味でも若い坊さんが出て本来の温和で助け合い、他者を認めるという仏道の精神に則した活動を心がけていただくことは大いに嬉しいことですね。
    今一度坊さん本来の姿を顧みる姿勢は大切にしたいです。
    拙僧も早いところ引退しフレッシュな思考の者とチェンジしていかなければと焦っています。
    また無事に御役目を16代目にバトンタッチできるということが何よりの幸せだと思っています。