一筆申す 火の用心 お仙泣かすな馬肥やせ

既報の通り昨日の盂蘭盆会恒例の手拭の文字は「火用心」。

能書きには「一筆啓上」と語呂いい言葉で記しましたが原文は「一筆申す」だったそうです。

以下言い回しは多少違いますが「火の用心」のところは同じですね。

 

①何よりも「火」の始末に注意せよ

②息子の仙千代の養育をしっかりと

③いつでも次の戦場に赴けるよう馬も喰わせておけ

という要点を端的に記した名文ですが

本多作左衛門(重次)が出張先の戦場、長篠から奥さんに出した手紙です。代表的な三河武士、「鬼」と呼ばれた作左衛門の「家族思いの家長」の優しい姿が想われます。

 

 家康がうるさ型の奥方の築山殿が健在だったころ奥方の奥女中だった「於万」との間の子供がのちの結城秀康で二大将軍になる秀忠よりは5つも年上です。

於義丸(結城秀康)は「側室の子」としての定めか羽柴秀吉に政略的養子入りをして羽柴姓を名のった後、関東の結城家に婿入りしてその家督を継ぎました。

 「於万」が安心して子供を産める様に匿ったのが作左衛門でその関わりから大事な息子の仙千代まで秀吉の人質にされた経緯があり、秀吉への反発は事あるたびに露骨に表れて、晩年は蟄居謹慎の身になっています。

作左衛門の息子仙千代(本多成重)は越前北ノ庄に入った結城秀康との関わりから結城松平系の家老職として初代丸岡藩主として丸岡城に入りました。

 

福井城は柴田勝家の北ノ庄城落城後、結城秀康が入って改修したのか、まったく新しい北ノ庄城を作って福井城と改名したのか曖昧です(場所はここ)。

これから発掘調査などは絶対にできないような福井市内中心部にあります。福井城の堀の中には県庁やら県警本部のビルが建っています。勝家の北ノ庄といわれている場所とは歩いて10分くらいと相当近いですね。

地形から想像するに戦国期の北ノ庄城は起伏も無い平城で攻め込まれれば早々に落ちてしまうでしょう。

画像は以前極寒の時期に行ったもので堀の水は凍っていました。③は修復された御廊下橋。