「強請(ゆすり)」の反意語は・・? 「不請」

「強請」(ゆすり)については先日のブログの通り。

よく並列されて言われる「たかり」の部類よりも、そのあてる字からもより劣悪な行いを匂わせますね。

その語、「請」は請求書の「請」だけに「強引な請求」であって、そしてまた、その請求の根拠が甚だ「無い」に等しいというのが常ですね。

その「強請」(ゆすり)に対して、私ども真宗は勿論、浄土系の教えの中に「不請」(ふしょう)という語があります。

 

真宗の主経典といえば親鸞聖人の「正信偈」ですが、その他、古来経典として阿弥陀世界を読誦する浄土三部経があります。

浄土三部経(『仏説無量寿経』・『仏説観無量寿経』・『仏説阿弥陀経』)の三点が真宗であげられるいわゆる「お経」と呼ばれる経典になります。

ちなみに「正信偈」は厳密には「お経」ではありませんね。

 

 その『仏説無量寿経』(大無量寿教)の上巻に「不請の友」「不請の法」という語が出てきますが勿論その人は「阿弥陀さま」。

 上記の如く「不請」という字を「強請」に対比すると凄いことになりますね。何と言っても「請求しない」ですからね。

「もろもろの衆生のために不請の友となる」「不請の法をもってもろもろの黎庶に施すこと、純孝の子の父母を愛敬するがごとし」

が経典より抜粋した意ですが、現代では「不請不請」と、「いやいや気が進まない中,しぶしぶ何かをするさま」に使用される語でもあります。

これも仏典発祥の語彙の曲解使用で、珍しいことではありませんが、この解釈については何とか本来の意が想像できるというものです。

阿弥陀仏本来の「不請」の姿勢を無論、仏では無い生身のわれらが行うのであるならば、それはそう簡単なものでは無いでしょうし、並々ならぬ覚悟が必要であろうことから、当然に「しぶしぶ」となっても致し方ないでしょう。

 

そもそも阿弥陀如来の代名詞である「不請」とは真宗一流の主眼である「他力」のことで、言ってみれば「衆生の方から求めていないのに、仏の側から率先して衆生の心を察して(友となって)くださる」ということです。

 その代名詞たる所以、私が好きな鴨長明の方丈記、浄土教系譜に看過された者で無くともその全編を遍く覆って示唆する「無常観」に心を動かされた人は少なくないでしょう。

それもまた御釈迦さんの弟子の中で私が親しみやすく感じてしまう、また周囲からは「一番バカ」だったといわれていた「周利槃特」(しゅりはんどく) の名が登場する段「そもそも一期の月影かたぶきて」にて語られていました。参考までに。

 

「そもそも、一期の月影傾きて、余算の山の端に近し。

たちまちに三途の闇に向かはむとす。

何の業をかかこたむとする。

仏の教へ給ふおもむきは、ことに触れて、執心なかれとなり。

今、草庵を愛するも、咎(とが)とす。閑寂に着するも、障りなるべし。

いかが、要なき楽しみを述べて、あたら時を過ぐさむ。

静かなる曉、このことわりを思ひ続けて、みづから心に問ひて曰く、世を遁れて、山林にまじはるは、心を修めて、道を行はむがためなり。

然るを、汝、姿は聖人にて、心は濁りに染めり。栖(すみか)はすなはち、浄名居士の跡をけがせりといへども、保つ所は、わづかに周梨槃特が行ひ(彼の仕事はひたすら境内の掃き掃除でした)にだに及ばず。

もしこれ、貧賤の報のみづから悩ますか。はたまた、妄心のいたりて、狂せるか。

その時、心さらに答ふることなし。

ただ、かたはらに舌根をやとひて、

不請の阿弥陀仏、両三遍を申してやみぬ。

時に建暦の二年、弥生の晦日比、桑門蓮胤、外山の庵にしてこれを記す。
『月かげは 入る山の端も つらかりき たえぬひかりを みるよしもがな』」

 

 

「両三遍を申してやみぬ」というところが特にいいですね。

私の勝手な感覚としては親鸞聖人より十八歳上の鴨長明さんが南無阿弥陀仏の名号を称える(称名)を多数回重ねるというそれまでの「行の感覚」から「南無阿弥陀仏2~3回」という少数回で済ますという「信の感覚」への変化が垣間見られるところです。

(ただし時代は多数回念仏主流その後親鸞聖人が出て「一遍の念仏」を「深く信じて」・・・と変化していきます)

諦観ではあるものの決して投げやりな心境をつづったところではありませんね。

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コメント: 2
  • #1

    スピーカー屋 (木曜日, 20 6月 2013 06:35)

    「不請」と「他力」が=ということ。頭がスッキリしている時に考えてみたいです。「他力」の真意自体、わかったようで解ってないので難しいですが(笑)  

  • #2

    今井一光 (木曜日, 20 6月 2013 09:44)

    ありがとうございます。
    「他力」とは何とも深淵な思想ですね。
    やはり私はもう一つの真宗のポイントとなる「悪人正機」も
    含めて「方丈記」のこの段、ほとんど鴨長明のボヤキにも似た
    「無常観」の吐露からその後親鸞聖人の主張である「絶対他力」を読み解くヒントがあると思っています。
    今後もよろしくお願いいたします。