強請(ゆすり)たかりは昔から 役人の業 東照宮

強欲でしつこい執着心を持ち、仲間を誘って大挙して相手に取りついた挙句すべてを食い尽してしまうシロアリの如くの集(たか)りや強請(ゆすり)は昔から「役人」の所業の代名詞。

チンピラよりも性質(タチ)が悪い迷惑行為です。

集(たか)りについてはだいたい意味(ハエがたかる、アリがたかる・・・)は分かります。

また「強請」にこの字をあてるのも凄いですね。字を見れば「強く請求すること」で納得できますが、それを「ゆすり」と読ますとは・・・。まずそれの本質は「やり方」がセコイのです。

「ゆすり」ですので本来の字を当てれば「揺する」ことで間違いありませんね。コレ語源は相手を強く「揺する」ことではないのですね。

 

 さて末の松山小倉百人一首42番歌清少納言のお父さん

清原元輔の 

 

契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山 波越さじとは

 

は私が入試で捨ててほとんど勉強しなかった「古文」大の苦手の中、唯一、これぞと人様に紹介している和歌です。

お話としては、此の歌の本意である「彼女に振られた後の未練がましい元輔のネチネチした心境」などは無視して後半部一見意味不明の「末の松山」についてです。「末の松山」の地名は実在の場所でその語は「堅い」の代名詞(歌枕)。「堅い約束だったのに~」となるワケですね。

 

①「地震が来たら高台に逃げろ」などということは

 西暦900年の人は皆知っていた

②それも貞観地震から約100年経った後の歌である

③そして昔起こったはるか東北地方の出来事を京の上流階級の

 人は皆知っていた(歌枕―末松山に居さえすれば波を越さない

 =「ガチガチに堅い」という意味)それから1000年以上の間

 民間親しまれていた歌である

 

 

当時の現在メジャーに持て囃されている名のある歌人は貴族あるいは役人、そして坊さんが主ですね。

清原元輔は和歌で名をなした人ですが、もしかすると関西系お笑いの原点かも知れません。

元輔はお役人ですが奉幣使(ほうへいし)という大役を任じられたことがありました。

奉幣使は名目上、神社に「天皇の代理で参拝」するというもので、一般的なお供物とは違う、供え物を持参します。

 ある祭りの最高潮に盛り上がるメインイベントに馬を駆って参上した元輔は「お約束」通り、公衆の面前で落馬。

被り物も落ちて露わになったのは毛が無いつるつる頭。

そこで落馬した理由やら冠が落ちた弁解やらその理由をくだくだと説明して回って、「毛が無い」だけに「ケガ無い」と言ったかどうかは知りませんが、大いに場を笑いに盛り上げたとのこと。

 

 その奉幣使、室町以降「例幣使」(れいへいし)と呼び名が変わって、江戸期、家康が神格化された日光東照宮にもその勅使は使わされました。

日光例幣使の内情は京都の朝廷(天皇)の幕府への義理立て的要素があり、天皇家-将軍家とのとりもちのような大義と権威がある仕事でしたが、その仕事の重さに比して、日光例幣使の人選は下級公家・下級役人が主でした。

 要は今でいう木端役人で普段はいつも上役に頭があがらず、生活も裕福ではなく金銭的にもあまり余裕のある人たちでは無かったのです。

 

 ところが上記の如く朝廷と幕府の権威を一身に背負って大義大役を遂行するということから京都から日光の行き帰り道中では権勢をタテにやりたい放題の大迷惑をしでかしていました。

本人や付き人世話人の宿代、飲食全部タダで殆ど「たかり」。

今も街道筋に「○○天皇立ち寄り」等各所に残っていますが捻って考えると殆どはその「例幣使にやられた」宿だったのかも知れませんね。

京都から下向する時の行列にはたくさんの空の長持ちを地区ごとに用意させた人足に担がせて行くのですが京都に帰る頃には長持ちの中には各所でせしめた「戦利品」が詰まっていたそうです。

任務終了時にはちょっとした小金持ちになっているのも今の政治屋さん世界と同じです。

面白いのは因縁を付けて補償金を奪い取るやり方が上記人足の手配の不手際(多人数を依頼し不足分を指摘)や例幣使自身が乗った駕籠を中でわざと左右に揺らして駕籠から落ちるというパフォーマンスを行い、「あんたのせいやどうしてくれるんや」。「私は皇と将軍と同等の身」であるということを大いに主張して粗相・不手際があったことを咎めて大金を巻き上げたそうです。元輔は笑いを取りましたが近年となると役人は金品を盗るのが生業になりました。

 

 強請(ゆすり)とは他人をどついて脅すのではなく、自分が揺れて人を脅すのでした。

天皇等権威者の傘に守られながら神輿を担ぎつつ、やりたい放題で庶民を食い物にする輩は何時の時代も目に余ります。