七百人もの処刑となると・・・堀川城残党 獄門畷

鍬や鋤を手にした戦闘素人主体の衆が立て籠もった堀川城は遠州侵攻に出た松平元康、といっても永禄九年(1567)には、「松平元康」から「徳川家康」に改名していますので、堀川城攻めの永禄十二年は「徳川家康」でOKです。

 

家康の当時の目標は旧来の御屋形様、今川義元との完全なる決別です。改名により諱の元康の「元」を外したことはその意の表明でもありました。

 

永禄十一年には家康は、高天神城の今川方城将、小笠原長忠を徳川方に誘い、その年の末には、桶狭間で憤死した義元の跡を継いだ嫡子今川氏真を、武田勢の本気の侵攻によって駿府を追われて大井川を渡り掛川城の朝比奈泰朝の元に逃げ込んだところを攻めたてていました。

 

掛川勢は籠城を決め込んでいましたので家康は焦りつつも付城を多数設けて今川潰しにかかっている最中でした。

信玄が駿府を陥して今川領の駿州切り取りに成功した頃ですので、信玄に遅れをとる訳にはいかなかったのです。

家康は一刻も早く遠州を我が手に治めたかったことは無理も無かったことでしょう。

 

しかしよく考えると東遠州に位置する掛川や高天神に三河から戦線を伸ばす事は、途中に名だたる有力武将の存在が見られなかったこともありますが、冒険というか何とも危うい戦線でした。

 

当時、敵地侵攻の場合の自軍兵糧の調達は現地調達が主でした。

荷駄隊という後方支援というか兵糧運搬システムも一部存在していましたが何と言っても兵糧については武器消耗の支援よりも食糧欠乏は致命的ですのでこれに関しては付近農村からの調達が手っ取り早かったのです。「腹が減ったら戦は出来ぬ」と言いますね。

 

調達と言っても殆ど強制で、略奪行為など常套手段の時代です。

そこへ来て気賀の農民が三河方への一切の協力をしないどころか、領主今川の意を汲み、家康に牙をむいて抗ってきたというのが当時の状況ですね。

余談ですが家康は当時そのことについては十分危惧していたことだと思います。伸びきった戦線に対抗するには籠城が一番で、掛川城のとった時間稼ぎ戦法は得策ですね。

 

その点、すべて現地調達(燃料をも)を旗印に中国からタイ・ビルマ南方戦線へ後先思量せず、いたずらに戦線を拡大して自壊した日本陸軍の無謀さは後世の語り草になっています。

戦略史における顕著な失策例ですね。

 

家康はこれからの東遠の難題、今川勢の駆逐と甲斐武田への備えというテーマに傾注していきたいところに、結構気にかけている弱点であった、「伸びきった戦線の根本を絶たれるやもしれず」という事案にはどうしても許容できなかったのだと思います。

また下手をすれば東西からの挟撃を受けかねない状況に陥りかねませんでした。

 

相当アタマに来たのでしょう。籠城していた住民700人はこの城から北の山側の呉石という地の小川の畦で斬首されました。天竜浜名湖線を渡った旧街道(姫街道)筋に「堀川城将士最期之地」の石碑が建っています。これを通称「獄門畷」ごくもんなわて(場所はここ)と呼んでいます。

この石碑のすぐ東側には街道本格整備の頃に設けられた気賀宿桝形の片割れが残っています。

 

桝形は気賀宿場の西の入り口にある想定される攻め手からの防御陣営で、矢来で囲まれた門の内側にあったことが知られています。左右の石組桝形が対となって角を造りだし直進を妨げました。常夜灯が当時の面影を伝えています。

畷とは田や畑、小川などの土手の事です。そういった土手や壇という構造物はしばしば斬首処刑に使用されました。

何気なく気軽に使用しれている言葉に「土壇場」という語がありますが、刑場に引きずられて左右から押さえつけられまさに今、刀を振り下ろされようとしている「その時」のことですね。

 

木製の見せしめ台(獄門台)を700人分造る手間を省き、街道の門がこの当時あったかどうかは知りませんが、その門前の畷にて見せしめとして並べられたのでしょうか。

恐ろしい光景が思い浮かびます。

 

画像①②が獄門畷③④が桝形⑤が天竜浜名湖線です。