成瀬谷から犀ヶ崖 やられっ放しでもなかった

当家御先祖様の成瀬藤蔵の墓地のある浜松市蜆塚の一画に成瀬谷がありますが、ここが元亀三年(1572年)に藤蔵が亡くなった場所です。

当地の宗源院にお墓がある(場所はここ)ことはブログで記しました。

浜松城から宗源院と結んだ距離が1キロ弱、浜松城からそれより北方向の姫街道沿いの同等の距離に犀ヶ崖(さいががけ場所はここ)があります。宗源院と犀ヶ崖との距離はもっと近い位置になります。

 

 犀ヶ崖は谷山起伏の顕著な当地にあって、かつての急峻な崖の存在を優に想像できる地形が今も残ります。

今は宗円堂というこの崖の戦での死者を弔う御堂と資料館が建っています。

 ボロ敗け敗走の三方原でおもらしまでして城に逃げ帰った家康は、ヤケクソの城門開放のうえの「松明こうこう照明作戦」で武田方をビビらせ、勝ち戦で油断して野営する武田軍に対して起死回生の急襲作戦を慣行します。

まあ大勢は決定的で「一矢報いる程度でしたが・・・

 

 この崖は今見てもかなりの深さがありますが当時はこの数倍の落差があったそうです。

浜松城の北側、三方原よりの位置に陣を構え、休息中の武田軍はその用意周到の作戦に思うように引っかかり多くの武将かこの崖に落ちて憤死しました。

 

 こちらより北側に「布橋」という地名が今も残りますが谷に掛かる橋を模した布を渡してそちらに追い込んだという伝承が残ります。

不意を突かれて総崩れとなって敗走する集団は夜間それを橋であると見間違い、馬もろとも崖下に落下したとのこと。

 

これらの戦闘で亡くなった人たちを弔うために自然発生的に起こった念仏講が今の「遠州大念仏」に発展したのでした。

 

画像①は宗源院成瀬藤蔵五輪塔へのお参りする愚息と脇の小さな五輪塔たち。③が藤蔵五輪塔の銘。④⑤犀ヶ崖⑥は当地家康御手植えの楠。