新田義貞首塚伝説 小田原網一色村(山王)

「建武の新政(1333年~1336)において、後醍醐天皇方の中心的な武将であった新田義貞は、北陸地方を転戦中、1338年、越前の藤島で討ち死にし、足利尊氏によってその首をさらされていました。

そのことを容認することは出来なかった義貞の家臣の宇都宮㤗藤(偶然にも後世の小田原城主大久保氏の祖)は主君の首を奪取し、領国である三河の妻子に別れを告げて義貞の故郷の上野国に届けるために東海道をくだりました。

しかし、小田原の酒匂川のほとり、網一色村に達したとき、体調を崩し、遂に体を動かすことができなくなってしまったそうです。

やむをえず、義貞の首をこの地に埋葬、自分自身も志半ばにしてこの地で亡くなったと伝えられています。宝篋印塔は時代の経過を感じさせます。

脇に並ぶどちらかの五輪塔が宇都宮㤗藤のものなのでしょうか。

 

こちらはブログ「上杉謙信誕生と龍若丸(上杉憲政の嫡子)の悲劇」(→こちら)でお知らせした墓地のほんのスグ近くです。

今は国道1号と相模湾のごく狭いエリアにあって学校と住宅がひしめき合った場所ですが、当時は処刑場と墓地があった場所と推測されます(場所はこの辺り)。龍若丸の墓はここより西側の山王小学校の前にあります。

ちなみにこちらの東側、酒匂川の手前に白鴎中学がありますが、私が小学校低学年の頃、父親がこの中学のソフトボール部の顧問をしていた時、何度か連れられて試合等を見に行きました。

その時の印象は、怒鳴っている父親の姿を見て「そんなに怒るなよっ」でしたね。怒られてもキビキビと動く部員たちに感銘を受けたものです。