高天神本曲輪より東方を望む

春霞がかかってこの時期は天気が良くても遠方はぼんやりしています。

しかし木々がまだ鬱蒼と繁茂する前ですね。

よって周辺の大体の位置関係をおさらいしますと・・・

 

 高天神城は主に東側への睨みをきかせ、南北に伸びた丘陵に主郭のある山頂、その西側に二の曲輪のある一城別郭の構え、南側に「追手門」北側が「搦手門」の配置です。

尾根つたいの西方及び二の丸西部については非常に曖昧な守備体制の城だったと思います。二回の戦いとも二の丸が真っ先に落ちていますね。

 

 中央突破の城攻め、「追手門」「搦手門」からの正攻法の攻城は共に本・二別郭、H型の凹部からにあたりますので左右の崖上の高所から丸見えとなり、投石からはじまって、弓、鉄砲の「横槍」の的となります。明らかに守り易く攻め手不利の作りです。

 

家康はこの城を落とすにあたり(第二次高天神城の戦い)世にいう高天神城六砦、実際にはその倍以上の砦を築きあげて壮大な高天神城包囲網を展開し、城内の兵糧攻めにかかりました。

これは後の秀吉の小田原攻めに酷似していますね。

 

 東側の牧之原台地をはじめ、横地、小笠、平尾の菊川と小笠川流域の平坦部からもその威容を表した高天神城の主郭から逆に東部を俯瞰するとこうなります。②→③

☆印が昨日お知らせした吉岡彌生記念館。

以下アバウトですが

 A能ケ坂砦 B岩滑(城台ヶ谷城) C横地 D段平尾 E火ケ峯砦 F安威(やすたけ)砦 G惣勢山砦 H姥懐(うばふところ)となります。

何せ家康はこの眼前の丘陵地帯に南は毛森山、中村、獅子が鼻、北は小規模の砦群に小笠山砦までと一直線にネコの子一匹通り抜けられないほどの徹底した城攻めをしました。

 

鷲山先生の御先祖様でしょう。籠城兵士に「鷲山伝八郎」の名が見られます。開城後地元土方にて帰農したものと。

きっと私どもの御先祖様とどこかで接触しているかと思います。そういえば鷲山先生も私と同じ15代目ですね。

15代といえば初代はだいたい450年前がだいたいその手の目安ですね。