大御所のお墨付き 私の高天神城指向

毎年4月の第一土・日(今年は6日7日 5日は前夜祭)を中心『大御所花見行列』(静岡まつり) で駿府城周辺は賑やかになっています。秀吉「醍醐の花見」の家康版でしょうか。

 その「大御所」とは勿論、徳川家康の事。

通常「大御所」=「将軍職を退いた前将軍の称号」でしたが

実権はそのまま変わらず、という意でね。

転じて「ある分野における長老や権威、または過去に大きな功労があった者やその分野の草分け的存在の者」としてよく耳にする言葉でもあります。

 

さて、今の戦国ブームの草分け的存在で静大の名誉教授として一線を退いたかに見えるものの尚も現役でその学術的権威者として各種メディアの露出度も高く、各地歴史講演会にはその方の名を欠かすことができない、小和田哲男先生のある冊子でのコメントを紹介します。

 

この冊子はNPO法人「歴史のかたりべ」が主催する「日本城検定」の受験者に配られる特典の様ですが、その冊子を開いたトップページに小和田先生の談が紹介されていました。

先生のあげた「一番」は何と高天神城。

日本全国、数ある「城」の中、私の「一番」とまさに同様で、これ将にうれしや、まるでお墨付きを頂戴した心地です。

 

そのお話の中で注目すべき内容が記されていました。

最近の研究によって元亀二年(1571)の武田信玄による高天神城攻めは無かったとする説が有力なのだそうです。

 おそらく信玄は南遠にはやって来たものの無理な戦闘をして戦力を落としたくないという謙虚な気持ちから実際に戦闘には及ばなかったということなのでしょう。

 いわゆる「高天神城の戦い」を3回に分けたうちの1回目、第一次高天神城戦と解されていたものです。

そうなれば第二次高天神戦が武田勝頼に落とされた天正二年(1574)で第三次が家康による奪回戦との説をずっと信じてきましたが、全二回の攻城戦であり呼称「二と三」が「一と二」へ繰り上げなくてはならなくなりました。

そういえば小和田先生はずっと以前から「二回」説をとっていましたね。

 大きな意味で、信玄が出てきて戦火を交えることが無かった高天神城を勝頼が力攻めで落城させて調子に乗りすぎ、その後ますます歯止めが効かなくなった勝頼が長篠で惨敗したという構図は変わりないでしょう。

 

③の画像は小和田先生監修による「戦国の合戦」(実業の日本社)です。著名な戦国期の合戦を

1「野戦」2「攻城戦」3「謀略」に分けて簡潔にわかり易く記しています。

読みにくい漢字には仮名がふってあり、戦国入門者からある程度知っているつもりでいる私なども、新しい発見が多々あって紹介されているその「現場」に訪れてみたくなってしまうような面白さがあります。

特に戦国時代というものを全体的に理解していきたい方には最適な書籍です(762円+税)。

 

NHK歴史秘話ヒストリア

4/10(水) “愛”の武将 美しき絆

   ~直江兼続と前田慶次 会津にかけた夢~

4/17(水) 独眼竜出陣!北の関ヶ原(仮)

   ~伊達政宗 “会津”をめぐる戦い~

に小和田先生がワンポイント解説で出演されます。