首塚は錦浦、鳥羽城を眺めて

伊良湖岬フェリーにて一時間弱で到着するのがこちら鳥羽の港。

中世より「泊」、「泊場」と呼ばれて志摩の海上交通の拠点でした。その泊に答志島で自害した九鬼嘉隆( )が文禄三(1594)に築いたと云われるのが鳥羽城です。

答志島の九鬼嘉隆首塚はこの鳥羽城が望める場所にありましたね。

鳥羽城はまさに水軍(海賊)の城の如く、大手門(水門)は海側。四方を海に囲まれていたため「鳥羽の浮城」と呼ばれていました(画像①)。黒(海側)と白(山側)で彩色されていたことから別名「黒白二色(にしき)・・・・錦(にしき)城」ともありこの辺りの海を「錦浦」とも呼んだそうです。

 

 1681年の資料によれば本丸には三層の天守(高さ約20m)が建っていたそうです。

明治以降本丸跡は旧鳥羽小学校(移転済)のグラウンドになっていました(画像⑨)。昭和になって御木本幸吉(生家は伊勢うどん店)という人が出て当時、相島(おじま)にて真珠の養殖を成功しました。小学校はその御木本氏に相島を売却した資金で作ったそうです。相島は現在は「御木本真珠島」と呼ぶそうです(画像②「パールブリッジ」と真珠島、奥に答志島が見えます)。

現在の鳥羽フェリー乗り場、鳥羽水族館(画像③)に隣接した地域にあり、道路と線路が城跡との間に走っています。

現在、海側の面は急峻な崖となっておりますが当時の鳥羽城縄張りはその水族館くらいまであったとのこと。

 

城跡は近年に整備された石垣と本丸周辺の野面積みの石垣が混在します。イメージとしてはサザエのような螺旋状の登城路でした。城の山側は武家屋敷があった場所ですが現在は市庁舎になっていました。

 

最後の画像が2019年7月に発見報道された鳥羽城図絵追記。