本願寺が苦しめられた海賊の頭 九鬼嘉隆

伊勢の鳥羽は一言で言えば真珠と海女さん(海産物)の町なのでしょうがかつては「海賊大名」「九鬼水軍」で名を馳せた九鬼氏の本拠地。

8代目当主九鬼嘉隆は最大35000石(従五位下大隅守)の大名に。

 

 当家は織田信長が次男の信雄をあの剣豪塚原卜伝のパトロンともなって剣術を学んだといわれる伊勢の北畠具教の養子に入れる事に成功した戦いで戦功をあげてから織田家内で出世していきます。(ゆくゆく北畠家は滅ぼされます)信長に取り合わせたのは滝川一益で秀吉時代に双方軍船同士で交えましたが嘉隆とコンビを組んで一向宗制圧に向かいました。

 

脱線ですが北畠家は珍しい公家出身の戦国大名。

天皇家、管領細川家始め幕府にも近い名家でした。信長がその名を残すべく一気に滅ぼさなかった理由はそこにあるのでしょう。当初は次男に「北畠信雄、(地元では北畠信意)」を名のらせています。

 

  後醍醐天皇の建武の新政時、北畠親房が南朝の武闘派を仕切って活躍し「神皇正統記」を記して論理的に南朝の正当性を説いたことは日本史試験勉強では必須のところ。

 

 NHK大河「太平記」では北畠親房役が近藤正臣でしたが既報の「鳥羽・答志島パラダイス 特別編」にも出演しているようですね。ちなみに北畠親房の長男北畠顕家役に当時ブレークしていた後藤久美子が抜擢されて話題となりました。

北畠顕家は美男でキレ者。「風林火山」を旗印に~ということは信玄がパクリ?~一時は足利尊氏を一蹴するなど破竹の勢いで攻めたてたほどです。

 

さて九鬼嘉隆は信長のバックアップもあって当地での台頭を確固たるものにし、信長やその後継者秀吉の攻勢に加担し水軍という特化した職種で各戦局を左右する戦いで勝利に貢献していきます。

 

 伊勢湾の長島一向一揆の制圧から始まり石山合戦では木津川の戦いに多くの船舶を動員しています。

当初は毛利水軍により蹴散らされていましたが、嘉隆は例の鉄甲船を建造し逆に毛利水軍を壊滅させて信長と石山本願寺との和議を勝ち取り、本願寺退去大坂平定という道筋をつけました。

 

 秀吉時代にも秀吉に従って小田原攻めの際には、九鬼水軍が相模湾を埋め尽くして海上封鎖したことはブログでもお伝えした通り。朝鮮出兵にも勿論参加しています。

 

関ヶ原は九鬼家も相当の思案があったことでしょう。

家督を譲った子の九鬼守隆に東軍家康配下として会津征伐へ赴かせて嘉隆自らは西軍に付きました。

これもそこかしこで見られた「家」存続のための苦肉の策だったのでしょう。

 

西軍壊滅後、嘉隆は鳥羽城からこの答志島に渡って腹を切っています。伏見城の家康への首実検の後、この島の伊勢鳥羽城の見える 「築上(つかげ)」の山頂に首が戻され埋葬されたそうです。

 

①は和具の港から築上の山へ②③が首塚の案内板と『大隅大権現』墓碑。ただしこの石版は新しめ。九鬼氏は移封後も明治維新を迎えているため御子孫が建てたものでしょうか。

④が首塚より鳥羽を望む